2012年9月23日日曜日

2007-04-03 ミリタリズムの歴史より引用② 編集CommentsAdd Star


いうまでもなく過去は現在とは歴史的諸条件が異なり、単純な類推や二重写しは戒めねばならない。
ズガビーン。私の記述の一番の痛いところだ。歴史的事象からピンセットのように傾向的に採取する。それが通念への反発に由来するとはいえ、論証的吟味の過程を経ていないから、あまり論説的意義を持たない。
 わかっちゃいるのだが。イスラムユダヤの宗教教育もしくは漢文素読でもいいが、音読というのは、論理的思考の整理に役立つという。せっかく一人部屋があるのだ。これから試してみるか。
 
ファークツのミリタリズム論の特徴は一言にしていえば、戦争と軍隊についての軍事的方法一般とミリタリズム的方法との区別を基本的で決定的なものとしている点にある。前者は、戦争に勝利するための合理的ないし科学的配慮をともなった直接的な技術であり、後者は階級(カースト)と儀式、権威と信仰という特質を帯びつつ、本来の軍事目的をこうえて、政治、経済、社会、文化の全領域における軍事的思考の強調となってあらわれる。さらにミリタリズム的方法は、前者=軍事的方法の諸目的を妨げ、その科学的性格を拒絶するに至るのである。ファークツは、このような軍隊による人間と器材との利用の、区別された二つの方法、という視点を一貫して貫きつつ叙述を展開している。しかも、このことが、封建騎士団の時代から説き起こしつつ、職業的常備軍の時代、徴兵制に基づく、大衆軍隊の時代へと近代ミリタリズムの発展の様相を追いつつ、現代の全体主義的ミリタリズムにまで説き及んでいる。またミリタリズムを、たんに軍部主導のそればかりでなく、文民主導のそれにも視野を広げて論述している。
 たとえば、ファークツはノヴァーリスの言葉を引用しつつ、「ロマン化するということは、凡俗なものに崇高な意味を、陳腐なものに神秘な相貌を、周知のものに未知なるものの高貴さを、有限なるものに無限の外観をあたえることである」として、古来、ロマン化という心的作用が戦争・軍隊の賛美・肯定の論理と心情を生み出す事情を明らかにしている。また戦争がしばしば「人間性の名において」敢行される状況描写もしている。
また軍人というものがどのようなメンタリティーをもち、それがどういう状況のもとで政治の領域にまで進出してくるかといった叙述も、現代における軍人の動向を考える際に、具体的な教訓事例となっている。
若干の将校団の気質、思考、行動は、ほとんどいつの時代、どこの国においても、封建制以後の貴族階級の観念、感情、属性の複合物の影響を大きくうけてきた。その貴族意識は、騎士道に従って獲得されてきたものであり、希薄化し変化しているとはいえ、基本的には騎士的なものである。その複合物全体は、出生貴族あるいは「創出された」貴族を通じて、さまざまな君主政体のなかに拡散してきた。団体精神や武装集団の団結性、従ってその親密性―その構成員はその他のどの社会層よりもいっそう危険と死にさらされていた―は、名誉観念のうえに、すなわち、内部志向性と排他性のうえに打ち立てられ発展してきた。それは階級が高いほど厳格さをましていた。その階級は、本質的には騎士階級に、中世にさかのぼりうるものである。しかもその中世は、アナトール・フランスが『赤い百合』のなかで述べたように、歴史の手引書のなかだけに存在するのでなく、どこの国でも終わりを告げてはいないのである。
 アルゼンチンではペロン主義が、軍部と労働運動との同盟のなかから形成された。これは黒色あるいは褐色のシャツの代わりに、「シャツなし」(都市貧民の別称)であった点を除けば、あのナチス党を連想させるものであった。ここでは栄誉の大半は軍隊のものとされた。しかも軍隊は、1870年以来戦争を経験していなかったにもかかわらず、その「もっとも名誉ある地位」は、「絶対的な神的価値」に値するものとされ、同時に軍隊の守護神「慈悲の処女」の名のもとに名誉ある将軍の地位が与えられた。
このような確執は、文民たちの不決断によって長引かされた。たとえばマッカーサーの極東における最高責任者としての地位をめぐる争いがそうであった。ワシントンが彼に対して抱いていた畏怖の念は、朝鮮戦争をめぐって文民統制を有効に擁護することを妨げた。そしてつぎのような彼の発想がいきわたるのを許容していた。戦争を開始するときには、「重視すべき主要点は統帥関係の均衡であり、構想の均衡であるが、決定的段階に達した瞬間には、軍人の統帥権である」と。こうした発想が全面戦争への危険をもっているということについては、すぐにはだれも理解しておらず、大統領―このような戦争の拡大化を望んでいなかった―も遅ればせながらマッカーサーを召還した。そして事態の処置が遅れたことの償いをそっけない言葉で埋めあわせた。「貴官は任用されたのであり、しかして貴官は罷免される」と。これに対するマッカーサーの反応は抗議の形態をとってあらわれた。彼は大統領の見解―「わが軍隊の構成員たちは、行政府が擁護することを誓っている国家や憲法よりも、その時点に行政権を行使している人々に、まず第一に忠誠を誓っている―を、新たな、これまで知られていない危険な考え方だ」として抗議したのである。
 マッカーサーは、憲法についてのあらゆる危険な解釈を大いに主張した。また「たかが」文民という言葉―これはかつての将校たちが「かりそめの」ジェントルマンを軽蔑の対象とした時代からの歴史的な態度―への共鳴の声もあげていた。しかし、このとき彼はもはや現役ではなく、どうみても彼一人孤立しており、カップ一揆でのゼークト、また1914年のカーラ平野における反乱に際してのイギリス将校たちのような重大な事態をもたらさなかった。それにしてもこのような彼の見解は、1945年以後のアメリカにおけるミリタリズム的思考が到達した頂点を示すものであろう。
 だが古風な平和主義者、社会主義者、自由主義者は、まるで旧敵なしではすまされないかのように、アメリカ政治において防衛問題や軍人にあたえている大きな比重を危険視していた。たとえば、ウィリアム・O・ダグラス判事は、「われわれは軍人に用心しなければならないだろうか」と問いを発し、この自分の問いを肯定し、次のように言った。「今日、われわれが軍人に気兼ねをしているために、わが国の歴史におけるいかなる時代よりも彼らと論争し、議論し、彼らを説得しうる余地はせばめられている」と。アメリカの教育者たちは、「軍の知的担い手たち、すなわち政策を決定し、権力を方向付けている軍内部の知的部分をとくに非難した。この権力の方向付けは、第一はあらゆる物質的諸手段の絶対的一元化、第二は征服地を拡大しない場合は現状維持という二つである、とされた。また古い世代に属する教育者エドワード・C・リンデマンは、「冷戦」のなかにあってつぎのように指摘した。「ミリタリズムが、軍事教練を通じて青少年の生活における不可欠の諸要素の一つとなることが期待されている」と。この冷戦という宣戦布告なき戦争におけるアメリカの戦略は、共産主義の膨張に対抗することにあった。ところが最大の軍隊を構想し、膨張させつつあるのがほかならぬ共産主義であるとすれば、それへの対抗戦略は、中立国や同盟国の側から見ても、「ミリタリズムと帝国主義という重荷」とアメリカにお背負わすことになると思われたのである。
 ミリタリズム―従前通りにそのような呼称を与えている人々がある―は、耐寒性の多年生植物のように、かつでの地域におけるよりも、さらに多く新しい思いもかけない地域に再生した。
 反枢軸同盟の内部に見解の相違が侵攻するとともに、ミリタリズムという言葉は、相手側に投げかけられる誹謗語となった。
 実際、戦争を終結させることは困難な問題であり、職業軍人には手に負えるものではない。ノルウェー伝説の一つのなかで、民間伝承の語り手がつぎのように述べている。
「この王は自分に忠告するものはだれであれ容赦せず、自分を喜ばすこと以外に耳にするのを好まない。……しかし、われわれ農民は、汝、オーラフ王が平和をもたらすことを望む。もし汝がわれわれの願いを叶えようとしないならば、われわれは汝を殺害し、平安なき不法なる状態をもはや黙視しないであろう。これは、わが父祖たちが行ってきたことである。わが父祖たちは、近くにある井戸のなかに五人の王を投げ入れた。これらの王たちが慢心し、法に背反する行為を犯したからであった」
 将軍たちは、優柔不断であり、ホッブスがいう競争の条件下にあって再現された恥辱に思い悩むだけであった。このホッブスがいう競争の条件とは、「どんな所有であれ、どんな行為であれ、どんな性質であれ、力の証拠としるしとなるものは、名誉あるものである」(『リヴァイアサン』10章)、という状況である。
 フランスにおいては将軍や提督ははるかに深く政治のなかに足を踏み入れていた。彼らは、政治上の最高責任者を、つけあがらせてはいけない知ったかぶりの馬鹿者、無意味な演説ばかりしている奴、唯一の有用なはずの役割―陸海軍のための予算を議会から引き出すこと―の点でも、いつもはなはだしく役立たずな奴」とみなしていた。

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