2012年9月22日土曜日

2006-04-04 現代の社会紛争より引用―01 編集


現代の社会紛争CommentsAdd Star

L・ダーレンドルフ『現代の社会紛争』―01
01 革命―歴史のほろ苦い瞬間
 革命は、歴史のほろ苦い瞬間である。少しの間、明るい希望が高まるが、それはすぐに幻滅に変わったり、新しい困難に直面して消滅したりしてしまう。このことは1789年のフランス革命や1917年のロシア革命など、大革命にもあてはまる。革命が勃発するまでは、抑圧や傲慢な権力者の時代、人間的な欲求を冷酷に無視する時代が続く。硬直化した旧体制は特権階級に依存しているので、旧体制の刷新が図られることがあっても、誰ももうその言葉を信用しないから、遅すぎる刷新の計画は遂行できない。人びとはもう旧体制に我慢しない。紛争のエネルギーが蓄積され、張りつめた対決状況へと進んでいく。状況は一瞬即発の危機となり、あとは火花があれば爆発に至る。例えば、不承不承の政治改革から生じる期待感も火花となるし、嘘偽りの時代に向けた銃声から生じる興奮も火花となる。これでもう爆発に至るのであり、古い構造が揺らぎ始める。突然、何も押しとどめられなくなる。昨日の反逆罪が今日は合法行為となり、旧来の法律は違法となる。興奮した人びとの目には、途方もない展望が開けてくる。それは、〈ピープルズ・パワー〉の出現であったり、強固不同な体制全体の溶解であったり、ユートピアの到来であったりする。多くの人が興奮状態に陥り、旧体制の不正だけでなく、社会の束縛そのものも揚棄されたような気分になる。なんとすばらしい時代なのだろう、と。
 ただ、そんな時期は長くは続かず、蜜月はすぐ終わる。日常性が人びとを包み込んでいく。人はしょせん、毎日果てしなくデモだけをしたり、内戦を闘ったりしてはいられないのだ。社会状況が個人個人の境遇に映し出される。騒乱状態は経済発展に役立たず、政治的不安定は不安をかきたてる。〔辛い〕〈涙の谷間〉の時期を回避しようという、善意の試みも実を結ばない。一般的ムードが変わり始め、そのうちに急変する。外国の勢力が干渉してくることもある。それによって、――少なくともユートピアの方は無傷のまま残っても――革命には傷がつく。ときにはジャコバン派のような党派が裏にまわり、バラバラの多数者に替わって支配権力を握る。そもそも「(主権者たる)国民の権力」とは、矛盾を含んではいないだろうか。〈より良い世界〉との美しいスローガンは、すぐに新しいテロ体制を正当化する口実に転化する。それは「期限を限っての」独裁や、外国からの脅威に直面しての非常事態であったり、アノミーの蔓延状況の下、単純にカリスマ的人物が出現したりすることになるかもしれない。いずれにせよ、新たに不自由な状態がもたらされる。何年かして初めて、より若い世代が、それでもやはり根本的な変動がより若い世代が、それでもやはり根本的な変動が生じているのに気づく。そして、革命の始まった日を公的祝日とする旨が宣言される。だが、革命に関与した世代には幻滅が広まり、無気力な隷従、私的幸福への退隠、散発的な虚しい抵抗のなかで、生き長らえようとすることになっている。
 たとえ、この描写が部分的にしか正しくないにしても、そもそも誰が革命など望むのか、人は疑問に思う。まず、大勢の人が革命を期待しているというのは、今では確実でない。たいていの人には、自ら日常生活を中断するのは不安だし、暗い予感もあるので、引き合わない。高温・日照りが長く続く時なら、土砂降りも歓迎されようが、毎日少しずつ降ってくれるほうが、悪天候の下で稲妻がとどろき、ひょうが降るより良いのだ。なるほど、誰もが同じというわけではなく、自由に浮遊する個人がいつも存在している。彼らは、どっしり腰をすえている人とは違って、社会の一時的廃絶に大きな喜びを覚えるのである。それどころか、無政府主義者が組織化されることもある。その上、革命の戦慄は少なからぬ人にとって禁断の魅力でもある。ある意味で革命は、生活に欠かせぬ原理たる〈希望〉と同義語のようなものだからである。
世界思想社 01年初版
オレンジ革命が幻滅に終わった今、ミンスクでは革命は成功するのかな。去年の夏、最上級の美人が小物売り場にいて話題になった愛知万博でのウクライナ館では、政治色の濃いオレンジ革命賛歌がちりばめられていて印象が悪かったなあ。

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