2012年7月11日水曜日

マクニールの戦争と世界史

マクニールは一流の歴史家です。特に該博な内容を、抑制の効いた皮肉を込めて記述する部分に私は惹かれます。

395頁
こうして官民間に高速度で循環するフィードバック・ループが生まれ、海軍本部の財政上・経営上の決定と、また表向きは民間企業である武器製造会社の財務上・経営上の決定とは縦横の糸のように交錯し合った。そしてついに、公共政策と、民間企業のポリシーは、二度と解きほぐせないほど緊密な布地に織り合わされたのである。さて、1920年代・30年代のイギリス自由党も、1950年代以降のマルクス主義(もしくは擬似マルクス主義)を報じる歴史家たちも、ひとしくこの官民混合体を批判したのであったが、どちらもひとしく、この混合体の中で支配権を握っているのは民間企業の側だと主張した。かれらの見解によれば、利潤の追求こそはこの混合体を動かすエネルギーであった。それ以外のいっさいはそこからの派生物にすぎず、自分自身も金持ちになり、自分が仕えている株主たちをも金持ちにしようと望む、抜け目がなくて欲深な男たちによって操作されているというのであった。

2012年7月5日木曜日

(言語心理学的短縮)加害者無し、黙認者無し………但し死者あり

(言語心理学的短縮)加害者無し、黙認者無し………但し死者あり

女子アナ・吏良の海上自衛隊メンタルヘルス奮闘記 [単行本]


彼女が非常に、良心的で精力的な人物であることは読んでよく判ります。本の大方もいわゆる被害者意識をリピートするのではなく、国民意識の中に受容された自衛隊員として自然体な口調で好感を持ちました。
ただし、以下のくだりは、非常に抵抗感があります。


34頁
ここではもう少し、海上自衛隊生活における人間関係について考えてみます。
自衛隊では、「いじめ」があったという例は極めて稀です。何をもって「いじめ」というのか明確な定義もないのですが、実態として、集団生活においてまったくのゼロということはないと思います。あまりにも要領が悪く鈍重な人や、自己中心的で極端に空気が読めない人は、集団の構成員から嫌われたり、辛く当たられたりするのがどこの社会でも普通だからです


山下さん、一般論のあとにいじめというのが被害者の自己責任であるかのような印象を与えようとする言葉を続けていますね。狡猾な手口とだけ言っておきましょう。いじめというのが不条理な衝動であること、根絶が無理であることは認めます。でも、これはなぜ犯罪がなくならないのか、なぜ過食や酒癖に溺れるのか、なぜ、こどもは動物や虫をいじめることがあるのか、といった合理的判断を超えた原始的とも言うべき本能から来る所産であることは、これを問題視する人、追及する人(勿論、家族が失われた人は到底このような「天井ないし蓮の池からの」客観視には立てませんが)だって、判っていることなのです。改めて貴方から指摘を受けなくともね。優越心(相手に地団太踏ませたい、辱めたい、恥辱を味合わせたい)という衝動は戦争でもレイプでも同じで、これもまたなかなか根絶は無理でしょうが、貴下のような態度でいじめが明確に定義不能とした後に、まず第一にいじめを主導した人間の心性や、付和雷同する周囲の怯堕、更に言えば、困惑し、もてあそばれ、不安に怯える劣位者を見て密やかに感じるいじめられていない側の満足心(それは3流のバラエティ番組やお笑い芸人のいじめ芸などにもあります)にいっさい触れようとはせず、それ自体としては否定しがたい、いじめられる人間のネガティブな要素に注意を喚起させる。山下さん、貴方は卑劣です。
次に行きましょう。

34頁
しかし、それが組織内で顕在化するかといえば、そうはならないでしょう。人間関係のトラブルは、本人と、ごく近くにいる人にしかわからないものです。何か問題があった場合に、周囲はそれを意図して隠そうとはせずともウヤムヤにしてしまうことが多い。また、いじめられている人を下手に庇うと、自分までとばっちりを受けるから見て見ぬふり、というケースもあるでしょう


ここで、山下氏が、明言する勇気はないが、印象付けようとしているのはただ一つ。いじめがあった事実は確認できなかった――この30年間、数多くのいじめ自殺の後に、当該学校の校長や教育委員会が、自らの責任を少しでも言い逃れようとした言辞の内容とまったく同じです。つまり、上長は知る由もありませんということです。山下さん、あなたも低劣な意味での組織人ですね。
もちろん、いじめの中には隠密裏の中に行われるいじめもあります。そういう、いじめの場合には上長の責任、組織の責任は重過失ではないでしょう。無過失ではありませんが。
ただし、いじめの中には、いじめ行為そのものが、手を出してこない部外者(クラスメート、教員)も含め、日常の出来事として当然のように行われ、そのことがいじめを受ける人間にとっての「生き地獄」としての絶望を亢進し、自殺への「跳躍」を決断させる事例が数多くあったこと。
山下さん、とりわけ臨床心理士のキャリアを踏まえた貴方ならそんなことは、多くのいじめ自殺者の遺言を取り上げた書物などからご存知のはずでしょうに。
そして、自衛隊内の事件でも、牢名主的存在となった先輩隊員が、艦艇内(艦橋含む)でモデルガンで狙い撃ちを含むいじめを繰り返していた事例が、遺族が訴えた事例で明らかになっています。山下氏は意図的にこのような事例を黙殺し、読者に隠そうとしています。


海上自衛隊内で暴力沙汰とか、いじめらしきものがあったと言われているものでも、調査報告書やいろいろな人の話を総合すると、些細なことで騒いでいるだけで、「昔はこの程度のことをいじめとは言わなかった」というようなケースもあるようです


もちろん、そういったケースもあるのでしょう。ただし、山下氏が、被害を訴える側にのみ責を負わせるケースのみ文章化する類の人物であるということも判断しなければいけませんが。
それに、「昔はこの程度のことをいじめとは言わなかった」とはどういう言い草ですか。海軍時代には「修正」というジョージ・オーウェル的なダブルスピークで、精神注入棒での体罰が正当化されていましたが、それを当然とする感覚なのですか。伺いたいところです。

人格を否定するような発言を続けるのはもってのほかですが、拳骨で頭を叩く程度のことは、上司の感覚では指導の範疇。例えば、艦の舵を取るとき、右と左を間違えたから叩いたという場合、それは当然の行為と言えるでしょう。そんなミスをしたら、他の船との衝突事故を起こすかもしれない。そのために死傷者が出る事だって考えられます。常に緊張感が求められる職場なのだから、厳しい指導はあってしかるべきなのです。



山下さん、そういった、都合の良い事例でその他の該当しない事柄もそれに含ませて印象付けようという、詭弁論理用語での「チェリーピッキング」は、もういいですから、そういったウッカリや不用意が大事故(自他ともに)に繋がるような、航空・海上管制官や、建設、バス会社などでの自殺事例の統計数字をご提示いただきたいものです。


とはいえ、一方でそれを「いじめ」と受け止め、心に深い傷を負って、萎縮してダメになっていってしまう人もいます。その結果、ますます「いじめられ役」になってしまうこともあります。そして修復不可能なほど人間関係が悪化してしまうときというのは、当人と誰か特定の人との人間関係が悪くなるというより、全体の輪からはみ出してしまうケースが多いようです。



私は、そういったケースもあると思いますが、そういったケースのみ羅列する山下さんの文章を読んでみて次の見解に至りました。
組織として、風通しが良い風土を口だけではなく本当に求めているのなら、いじめをしている側に、「悪事は必ずばれる」。旧軍のような社会と異なり、可愛い息子・娘がなぜ自殺したのか、親は半狂乱になって原因を追究するだろうし、何年何十年経とうと忘れることはない。その場の、3流バラエティ的もてあそび快楽のために、いじめる人間はいずれ自らのキャリアを失うことになると。こういうことがいじめに対する抑止となりうるのだと思います。もちろん、幾分かは加害者・黙認者の責を追及するという痛みの伴う作業ではありますが、そういったことが当たり前のように行わなければ、組織は淀み、腐ります

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別に、「制服を着た市民」「内的統制」を心がけたドイツ連邦国防軍とはいかなくとも、「個人の自由」「組織の制度設計」をきちんとこなしていた社会は、空気として上述のような矛盾と対峙するシチュエーションの映画ができるでしょうし、山下吏良さんも、内心ではアナウンサーからの、中途キャリア転職を心がけたときに、そのような役割を幾万分の1でも期待したのでは無かろうかと思います。
でも、この国は九州電力のやらせ開き直り、第三者委員会無視のように、上長者がそのふんぞり返った満足感を固持する為に、ほとんどのリソースを蕩尽する制度設計がもはや固着してしまいました。これは、官民問わずです。
この部分については、イケメン・ガーバメンタル・サービスクリエーター氏のブログが詳しいです。
であるならば、個々人の当初の青雲の志なども、無意味なものかもしれません。
そうかといって、聞き取るという作業自体が、全く無意味のものであるとも言えません。昨日までの、同僚が自殺で消えうせてしまうというのは、心理的に(これはいじめていた人間、傍観者を含め)非常にきつい経験でしょう。ここで、人心の動揺を防ぐというのがカウンセリングの第一目的で、例えその中に、いじめ事例があったとしても、地方総監のあとがき検閲のもとでは、上記のように、加害者無し、黙認者無しという、生者の安心立命を最優先する報告書を作成するのが関の山であったとしても、聞き取るという作業が組み込まれることによって、ごく僅かでも(いじめをする側に対しての)牽制力となるかもしれません。


下さんを見ていると、イリヤ・エレンブルクという才能のある作家が、雪どけという作品の中で、組織の中の空気を読んで妥協しているうちに、もはやそれ以外のことが描けなくなってしまったのだと自嘲する画家のくだりを思いだします。
ご自愛ください。