2013年12月15日日曜日

ナショナリズムというウイルスないしフクロムシ

2007-03-22 ナショナリズムというウイルスないしフクロムシ 編集CommentsAdd Star

この世界にいる誰もが、私を含めて、ナショナリズムというウイルスに感染しているんです。感染していない人は世界宗教とか革命イデオロギーとか別種のウイルスに感染しているんです。(『国家の自縛』より 佐藤優
生物学的な人口に膾炙した言葉を、自己の論説を下支えする材料として使うというのはありがちな似非科学だ。だから、このような自他を同一に客観視できる佐藤優という人物はやはり只者ではないなと感じる。
現在、政治・経済に権威付けのために流用されている言葉はDNA(日本人のDNA、トヨタのDNA)だが、これも数十年後にはファニーに映る恐れが多分にある。ナチの血統理論や骨相学。映画の『僕を愛したふたつの国』の中ではコメディに骨相学が取り上げられていて最高だった。
ともかく、隣国を貶めなければ自国ナショナリズムを語れない東アジアの哀しい構造を、十二分に知悉している筈の古田博司先生すらが、日本ナショナリズムの論壇戦士として身を投じるに至っている。まあ、時代精神というのはそういうものなのだろう。前世紀の30年代には『華麗なるギャッツビー』を書いたフィッツジャエラルドすら共産党への入党を希望した。社会主義リアリズムとはどう首をひねっても転化できない彼の作品が仇となって(今となれば幸運にも)断られたが。
私自身も、別種のウイルスに感染していることに自覚的であらねばならぬ。あえて、牽強付会であるが、以下の寄生虫を紹介したい。(多少グロではあるが、ご勘弁)寄生虫に人間が自己の精神・行動態様まで影響を及ぼすというのは、ありがちのテーマで幾多の作品がモノにされている。最近のヒット作は貴士祐介の『天使の囀り』か。
ここで、先日挙げた、類まれな論点整理者の過去回答からとても面白いコンテンツを見つけたので紹介したい。(AOLはすっかり過去の企業と思っていたが、なかなかFAQのレベルが高い。)
あまり知られていないがフクロムシというインセクトがある。宿主のカニをメス化して行動態様まで変えてしまう。いったん寄生すると体内からはみ出した部分をいくら切除しても、まったく効果がない。
『思想という名の毒薬』とは古田博司先生が、軽妙な文体の中に内容の濃いエッセイだったが、僕も貴方も寄生されているという文脈で捉えると、なぜあれほどの激情や冷笑にとりつかれるのかいささかなりとも理解できるような気がする。
私のなかに巣くっているフクロムシはどんなタイプなんだろうね。
http://www-es.s.chiba-u.ac.jp/paleo/topics/rhizocephara.html
http://homepage2.nifty.com/hukuromushi/hukuromusi_008.htm
(写真は結構グロイ)

そういいながらも、資金的に行き詰ったチャンネル桜が残存資本をかき集めて、失敗が約束された映画製作に向かうさまを見ると、それなんてマリアナ?(沖会戦、レイテでもいい)と残酷な喜びがこみ上げてくるのを否定できない。

2013年6月24日月曜日

企画展「波乱万丈! おかね道」 (6月24日 本日月曜最終日)

非常に関心があったのですが、時間が足りなく行けませんでした。私の目の黒いうちに、週休3日半を可能とする、仕事二院制が立法部のみならず、ありとあらゆる分野で行われれば、「良いなあ」と切に思います。そうすればこういった興味深いイベントを見逃すことがないのに…


5月22日 日経新聞 マネー&インベストメント より

◎見出し◎ 企画展 「波乱万丈! おかね道」

◎見出しⅡ◎浪費・運用の癖診断します。

日本科学未来館 (東京 江東区)
  • 新交通ゆりかもめ 「船の科学館駅」下車、徒歩約5分/「テレコムセンター駅」下車、徒歩約4分
  • 東京臨海高速鉄道りんかい線 「東京テレポート駅」下車、徒歩約15分
http://www.miraikan.jst.go.jp/guide/route/


http://www.miraikan.jst.go.jp/sp/okane/


ゲーム感覚で合理的なお金の使い方を学べる企画展「波乱万丈!おかね道」を開催している。果たして無駄遣いは減らせるのか。記者は会場に向かった。会場は架空の町という設定。来場者は順番に10種類の心理実験に参加し、最後までやれば合理的にお金をつかう「おかね道」をきわめられるという。

入場してまず目に入ったのは銀行のATM風の端末だ。促されるまま端末に向かい、画面をのぞき込むと質問があらわれた。

「見知らぬ相手が自分は900円、あなたに100円と言っています。どうしますか」。画面には「受け取る」と受け取らない」のボタン。100円もらえるのはうれしいが、なぜ相手は900円なのかが気になる。深く考えずに判断するよう説明があったが、いきなり考え込んでしまった。

この実験では「受け取る」が自分の利益になる。ところが実際は 「平等でないのは嫌」 「相手の思う通りにさせたくない」 という感情から 「受け取らない」を選択する人が多いという。

このほか 「1年後の1000円、1年と1週間後の1400円のどちらがほしいですか」 「当たりそうな宝くじはどれですか」 など、身近な題材での実験が続く。いずれもシンプルで子どもにも分かりやすいが、実験の後に示される解説は説得力がある。

実験は脳科学や心理学、経済学などの研究成果に基づく。人の考え方の癖を浮き彫りにするように工夫されているという。10種類の実験で自分の行動や回答を記録すると、誰もが陥りやすい合理的でない判断や、自分の考え方の傾向を知る手掛かりになる。記者の場合は「直感で判断せず自分の利益を求め、損失を回避する傾向がある」との診断が出た。

総合監修を務めた大竹文雄・大阪大学教授は 「お金の使い方に」自信がある人でも、合理的でない判断をしていることは多い」 と話す。直感的な判断の落とし穴や考え方の癖を知れば、「資産運用や買い物などで、より良い意思決定につながるはず」という。

入場料は大人1000円、18歳以下300円。 日本科学未来館の企画展示ゾーンで

最終日 本日6月24日まで。

2013年4月29日月曜日

美術展(1)アントニオ・ロペス



渋谷駅で見た、アントニオ・ロペス展覧会の告知。非常に魅了されてしまいました。

2013年2月7日木曜日

2011-11-05 わたしは記憶に耐えられることしかしない

2011-11-05 わたしは記憶に耐えられることしかしない 編集

[]わたしは記憶に耐えられることしかしないCommentsAdd Stardimitrygorodok

上の言葉はウーヴェ・ヨーンゾンの『記念日』に出てくることのほか厳しい箴言です。

世界の文学〈22〉ヨーンゾン (1977年)
東ドイツ出身の作家(1934-84)。東ドイツ政府当局と対立し、1959年に西ベルリンへ移る。1971年ビュヒナー賞受賞。
また、倜儻不羈(てきとうふき)(日本) ジノヴィエガ(ロシア)の内的規範を有すると見込んでいる瀬川松子氏は教育評論家について以下のことを書かれています


2011年1月31日セガマツブログより
私は、インタビュー等の取材を受けるたび、絶対に「教育評論家」という肩書を加えないでほしいという要望を先方に伝えてきた。これまで通り歯に衣着せずに言うならば、「教育評論家」という職業の胡散臭さと偽善臭さと嘘臭さは、なかなか、ちょっと、他にない。いや、評論したければしてもいいし、やめろと言う権利もないのだが、親受けしそうなタイトルで本書いて、教育雑誌を中心に露出増やして、頻繁な講演活動(もちろん有料)にシフトしていく。前書いた本とほとんど同内容の焼き直し本も書く。コンサルも始める。で、だんだん「国」のあるべき姿かなんかについて語り出したりして、不勉強なまま政治批評まがいのことを始めたりする。まあ、半分愚痴だけど。そういう、「教育評論家」という肩書の人にありがちな振る舞いのパックっちゅうか、渡世マニュアルみたいなものにのっとりたくはないなあ、かっこ悪いなあ、恥捨てないとできないなあ、ということを、私はけっこう真剣に考えてきた。
特に、教師や塾講師という肩書の人が本を書いてちょっと当たり、本職の教師や講師を辞めてしまった場合、先の「ありがち教育評論家渡世マニュアル」にのっとらざるをえなくなることが多いようだ。というのも、きたない部類の話だが、本が当たってメディアがちやほやしてくれるのなんてほんの一瞬だから、辞めちゃった本業で得ていた収入に見合うだけの食い扶持を手にするためには、コンサルやら講演やら焼き直し本の執筆やらをやらんければならんからである。それを自分もやるのか?やらんのか?
結論として、教育評論なんて職業としてやるもんでもないと思うし、したり顔で「あなたのお子さんは」なんて語るようにもなりたくないし、とにかく恥を捨てたりかっこ悪いことは御先祖や親に申し訳なくてできないので、そろそろ辞めて、地味に家庭教師やりつつ研究に精を出しつつ生きていくことにした
現代日本の名門校―「人材を育む」この中高一貫校
原発と上手につきあおう―原発報道に異議あり
この男を見よ―智辯学園を一流校にした藤田照清の生き様
美辞麗句の自家中毒に陥り、実事求是の対極に身を置くというある種の日本識者の典型的な惰弱さを記憶する必要があります。データベース的なじょうはるりの鏡はこの種の人物の散漫な駄弁を抑制する上で必要な措置でしょう

二見喜章氏のいくつかの発言
長年にわたって日本国内の原子力発電所を取材し続け、原発マンたちの苦労、真摯さ、誠実さ、仕事に取り組む姿勢の真面目さや勉強家ぶりを実感している私

それは原子力の持つマイナス面を強調した教育指導に終始している。
「資源の乏しい日本にとって原子力の持つ大きな力は重要なエネルギーである」
「原子力は文明の進歩発展にとって多くのプラス効果をもたらしている」
「日本の原発は準国産といえるレベルまで技術力・機器類の精度などを高めていて、放射能のメカニズムを解明しているだけではなく、危険な放射性物質を閉じ込める技術的ノウハウをも確立させている」
 こうしたバランス感覚のいい前向きな指導はもちろん、原子力の平和利用という視点に立った教育指導などはほとんど行われていない。つまり原子力についてはマスコミ情報に頼らざるを得ないのが実情である。原発問題でのマスコミ報道の影響力は、いやますばかりである。

臨界事故の過熱報道が一段落した平成十二年六月、親しくしている電力会社のベテラン広報マンが、マスコミの原発報道について鋭いロジックを展開した。
「JCOが引き起こした前代未聞の臨界事故については、住民に避難命令が出され従業員が被曝死したこともあって、マスコミは連日のように大きく報道しましたが、全体としてマスコミの報道ぶりは信じられないほど冷静でした。
 基本的に原発反対で、識者から反原発色の強い報道ぶりを批判されている朝日新聞毎日新聞をはじめ、日本テレビ、テレビ朝日、TBS、それに公共放送でありながら反原発色の強い報道に終始していたNHKでさえ、ニュースの時間に驚くほど冷静な報道をしていた。しかも読者や視聴者の不安感を煽るような報道は極力避けていました。従来だったら原発反対派に肩入れし『やっぱり原子力は怖い』『だから原発は危険なんだ』といったニュアンスの報道を大袈裟にするのが、これらのマスコミですが、今回は゛わが目″を疑うほど冷静な事実報道に徹していたと思います。
 これは二見先生が『正論』で『無資源国の日本には安全性の高い原子力発電は必要なエネルギー』と言い続け、著書でも(『異議あり!――マスコミの「在り方」を問う――』)マスコミの在り方や原発報道の姿勢について警鐘を鳴らし、猛省を促したからだと思います」
 日本のマスコミは、ごく一部を除いて「国益がどうとか、日本の将来はどうあるべきか」といった、真面目で先見性のあるロジックなどはほとんど展開しない。仮にしたとしても朝日新聞に代表されるような反体制的ロジックでしかない。物事の本質をバランス良く考える能力や知性に欠ける。ジャーナリズムというとインテリの世界と思いがちだが、実際はあくまでも商売としてのジャーナリズムでしかない。

バランス感覚が良く、日本の現在と将来について真剣に考えているマスコミ(メディア)というのは、私がウォッチする限り『読売新聞』、『産経新聞』、『日本経済新聞』と『正論』『中央公論』それに『新潮45』『週刊新潮』ぐらいだ。
「原発報道を真正面から取り上げた二見論文によって勇気づけられた関係者は多かった。ことに原子力PA(パブリック・アクセプタンス=広報)に携わっている関係者は、日頃から苦労しているだけに大変な自信を与えられたのです。ありがたかったですね」

私は日頃、電力会社やメーカーの広報マン・関係者に対して、
「マスコミから言われっ放しという姿勢は改めるべきだ。是は是、非は非と言い、こちらの言い分をきちんと主張しなければダメだ。自分たちの考え、スタンスをきちんと言って、間違いがあれば報道で訂正させる。そうした毅然としたところがないとマスコミは付け上がる」
 と主張し、アドバイスをしている。  そして「これからは『闘う広報マン』にならなければならない。新聞や雑誌・TVと大いにケンカするべきだ。それでもマスコミが原発問題で偏向報道に終始するなら、その時は名誉毀損や威力業務妨害等々で告訴するべきだと思う。告訴する相手は、メディアのトップ、担当役員、担当部長・デスク、取材記者、アンカー(最終原稿をまとめる編集者や取材キャップなど)を゛実名″で告訴することだ。面倒臭いが、そこまでやらないと反原発色の強いメディアはいつまで経っても改めない。
 原発の実態をきちんと検証して、常にグローバルな視点から原発問題を考え、問題提起できるメディアの存在こそが大切。原発に反対することで大向うを唸らせようとする姑息なメディアは不用だ。原発問題で電力会社がマスコミの餌食になっている状態は良くない。常に毅然たる態度でマスコミと対峙し、そう対応するべきだ」とも言い続けている。
 私は、二十一世紀の日本は「訴訟社会」になると思っている。
 情報化社会が進捗するにつれて、個人や組織に関わる人間関係は一層複雑さを増し、様々な人権侵害や名誉毀損問題が生起されるようになる。それだけ個人や組織が自らのアイデンティティを証明する必要に迫られるわけで、解決の場は「法廷」ということになる、と私は考えるのだ。電力会社の広報マンたちに「このことをきちんと認識して、マスコミと法廷で対峙する度胸・見識を身に着けなければならない」と呼び掛けているのは、こうした考えのためである。
「それと情報化社会では広告出稿の方法もドラスティックに考えなければならない。反原発色が強く『原発の持つプラス面』を評価できないマスコミには一切、広告を出さないこと。つまり兵糧攻めにすることだ。電力会社は安定企業だから世の中の好不況にはあまり影響されない。メディアから見ると、これほど欲しい広告はないわけだから、広報マンはこのことをきちんと認識して広告出稿を考えなければならない。
 電力の自由化が始まっているわけだから、広告宣伝費は合理的、効率的、効果的に使わなければならない。従来のように、電力会社は『おっとりしている』『懐が深いから何を報道しても文句を言わない』『殿様商売だから細かいことにはこだわらないしコセコセしない』と言われるようではダメ。これは褒められているのではなく、『バカにされ舐められている』のである。そのことを自覚し、発想や価値観を基本的に変えなければ、電力会社といえども存在が危うくなる。情報化社会における広報活動とは、『マスコミ対応を具体的に考え、シリアスに対処すること』と理解し認識しなければならない」
 取材の先き先きで「闘う広報マンたれ!」と檄を飛ばしているのは「原子力問題にとって最も重要なのは原子力PA(広報)」と考えるためである。
 本来なら「情報の提供責任」を自ずから持っているマスコミに恃むことである。しかし、国益について真面目に考えようとはしないマスコミには、無資源国の日本にとって「安全性の高い原子力発電は必要なエネルギー」といった、前向きな受け止め方やプレゼンテーションを期待することは出来ない。原発マンの「地を這う広報活動」に期待し頼む他ないのである。
 私がこの連載で「原子力発電所の実情」と共に「広報マンの活動」について検証するのは、このためである。
月刊『正論』より
「合理的で、コンパクトで、効率性が高く、地球環境に優しい原子力発電の導入こそが人口密度の高い日本に最適なエネルギー」との認識である。
 私はこのように判断した当時の財界人・政界人・官僚の先見性・行動力・意志力の優秀性について、改めて思いを馳せるのだ。この限りでは「立派でいい先人をわれわれは持ったな」と思うのである。もちろん技術者達は「発電技術・メカニズムについて習得さえすれば原子力発電こそが日本にとって最も現実的な発電システムである」と認識していた。

無論「無害」では無いが、繰り返しプレゼンスしているように「原発からは人体や生物・環境に大きな負荷を与える物質のいかなるものも全く放出されていない」のである。

日本の原発の歴史が「マスコミの偏向報道との闘いの連続であった」といわれるのは、こうした側面を持っているからである。そして今もなお連綿と続いている現実であって、“左寄り”のマスメディアとして知られる発行部数八百万部余の『朝日新聞』をはじめ、四百万部余の『毎日新聞』が発言力の大きさをバックに世論形成を行ってきた。

無論、当事者には「世論形成をしている」といった意識などは無いのだろうが、「活字の持つ重み」を考えれば発行部数の多さを無視するわけにはいかない。実際、四十七都道府県には“朝日”的“毎日”的な地方紙があり、TV局があり、似て非なる雑誌や出版物がある。しかもそのいずれもが「有力なメディア」として影響力を行使しているのである。「日本と日本人の将来」を真摯に誠実に考える人であるなら、バランス感覚を欠いた大衆迎合主義のメディアについて関心を持ち、その在り方を批判するのは当然である。私が「原発問題で偏向報道に終始している」メディア名を具体的に明記して指弾する理由はここにある。
 全国紙でファンの多い『毎日新聞』は「放って置いてもいずれ潰れる新聞」と業界通から言われているが、明治初期以来の伝統紙である。そう安直ではあるまい。それよりも私は影響力の大きい『朝日新聞』の存在に着目している。原発問題などシリアスなテーマでのミスリードが多過ぎるし、私が存在価値を否定している「社会党社民党)や共産党の機関紙」と見紛う論述が目に余るからである。記者一人ひとりの「在り方」に問題があるのだろう。とても「世界一の発行部数」一千万部余を誇る『読売新聞』の次に読まれている“高級紙”とは思えない。私の感覚や認識では、あくまでも『産経新聞』『日本経済新聞』の次にランクされるレベルの全国紙でしかないからだ。いや私は「全国紙としての『朝日新聞』と『毎日新聞』の役割は終った」と考えている。現実感覚がマヒしていて「時代に合わなくなっている」からである。しかし、朝日新聞社毎日新聞社の関係者は、その事実の重要性に気づいていない。社歴の古さと伝統の上にアグラをかいているからだろう。
 私には「教育評論家」としての立場もある。そして『現代日本の名門校』など幾つかの著書を公にして現代教育の在り方に問題を提起している。その中で私が繰り返しているロジックは「人間性の陶冶育成」であり「人間の優秀性の開発」についてである。つまり「人材の育成」についての論述を取材のデータに基づいて展開しているのだが、学校現場への取材で気づくのは「歴史があり伝統があっても常にシステムや教育指導の手法を見直していなければ名門校としては存在しない」ということだ。言い換えれば「歴史と伝統にアグラをかいている学校は全てダメになり教育機能を失っている」ということになる。
 マスメディアは人間集団によって構成されている「生きた組織」である。科学技術と同じように日進月歩が常態的に求められている組織体であって、社歴の古さや伝統の重みだけでは“貴し”とされない。常に鋭い現実認識とフレキシビリティが基本的スタンスとして求められるのである。この事は出版社についても言えることだ。
 バランス感覚が良く見識のある多くの良識人・知識人が『朝日新聞』の報道姿勢に“批判の矢”を放ち続けているのはこのためで、私の考えと軌を一にしているからである。
 大衆におもねるだけでバランス感覚はもとより公正さやジャーナリズムらしい見識の高さ、鋭い感性や知性に欠ける「メディアの存在」はナンセンスであり不要である。
「世の中の進歩発展に寄与しない、寄与できないメディアには一年でも早く潰れてもらいたい」と考える人が増えているのは、極めて「健全な在り方」といえる。一般大衆は時に度し難い「衆愚」となるが、常に「健全」で「賢明」でもある。私は「そうした在り方」に信を置いている。

日本の原発が機器類の精度や安定性・安全性の高さ、運転のし易さ等々、原子力発電が基本的に身につけなければならない「技術的な完成度」を具現化している事実について認識しているためだ。

大きな槌音をあげて

 この先駆けとなったのが「日本の近代原発の原点」で、昭和四十六年三月二十六日に一号機(沸騰水型=BWR軽水炉。出力四十六万キロワット)を運転開始させた東京電力福島第一原子力発電所であった。

実際、「世界一の原子力発電所」東京電力柏崎刈羽原子力発電所の建設当初から“原発づくり”に参加し、後に柏崎刈羽原発の所長となった川人武樹氏(常任監査役から退職)が「技術者のプライド」について喝破していたものであった。
「原子力発電の技術レベルは、有人衛星を打ち上げるロケット技術と同じかそれ以上に高く、しかも技術的な安全性は他の追随を許さないのです。圧力容器、各種のパイプ・ポンプ・バルブ、それに発電機やタービン等々、原子力発電を行う上で欠かせない技術は全て完成している。残る問題はこれらの技術を有機的に活用するだけなんです。
 われわれ原発技術者は常に自が生命を賭して『原発づくり』に取り組んでいる。日本の原発では『大量の放射能が外部に漏れる』とか『原子炉が壊れる』とかの“重大な事故”は絶対に起こり得無い。原発技術の完成度の高さ、安全性の精度は“世界に冠たる物”と自負しているんです。怖いのはヒューマン・エラー(人為的ミス)ですが、これとて“単純ミス”“うっかりミス”を起こさ無いように厳しくチェックし、自覚を促し、運転技術の向上のための研修は絶対的に怠らないプログラムを組んでいる。また万が一の事態が発生しても原子炉は自動的に停止するようになっておりますし、バックアップ体制は万全なんです。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど原発先進国の技術者がしばしば見学に来て、日本の原発技術を学んで帰りますが、研修を終えて帰る時、彼等は異口同音に言うのです。『日本が原発の安全性について、これでもかこれでもかとガードしている事実に改めて驚いた。われわれはセーフティ・コストを日本のようにはかけていない。日本の技術力は極めて高いのだから、ここまでガードを固める必要は無いのでは…と思う』と。日本の原発はあくまでも“日本の、日本人のための、日本人による原発づくり”を目指して実践しているのです」
 福島第一原発の関係者はもとより原発技術者を悩ませた「応力腐食割れ」は、技術者達の寝食を忘れた努力とチャレンジ精神、意志の強さと優れた想像力などによって見事にクリアされ、現在では百%自家薬篭中の技術となっている。修復能力を身につけているためだ。
 この技術力を身につけた結果、低下していた福島第一原発(六基の合計出力四百六十九万六千キロワット)の設備利用率は著しく向上、近年では安定した安全運転が常態となっている。稼働率も限りなく八〇%で文字通り「日本の近代原発の原点」にふさわしい“働きぶり”だ。

人類の歴史は常に「危険への挑戦」の連続であった。それを一つ一つ真摯に受け止め、一歩一歩確実に克服してきたからこそ、今日のような豊かで多様な文化があり、生活があり、充実した福祉等々がある。これはみな、先人達の「知恵」と「勇気」と「人生に対する限りなき憧れ」の所産である。われわれは「この遺産」をしっかりと受け継ぎ、後世へバトンタッチしなければならない

戦後の日本の教育は大衆教育に力点を置き過ぎております。人間の資質は生まれ出た時から違うわけですから、きちんとしたエリート教育を行って『人間の優秀性の開発』を行う必要があります。そうでなければ日本は“三等国”になってしまいます。日本には天然資源はほとんど無く、在るのは人的資源だけなのですから、これを開発する教育機関がなければいけない。原発立地点の自治体にとっては格好のテーマだと思う」

 私には多くの読者がおり、身近な批評家がいる。ことに「原発報道に異議を唱えている」物書きは皆無のせいか、孤軍奮闘している私に対してエールを送ってくれる読者は多い。その一人で、常に鋭い問題提起と厳しい目で私を鼓舞し叱咤激励してくれた、東京電力副社長で政府の司法制度改革審議会委員を務めた山本勝氏が、平成十三年十月十一日、六十二歳という若さで旅立った。器の大きな人で、私は常々「余人をもって代え難い人」と思っていた。優秀な人の多い東京電力といえども「山本さんのような人材」を見つけることは容易ではなく、電力業界はもとより経済界全体にとっても「大きな損失」とショックを受けた。そして十月十八日、東京・上野の寛永寺で行われた葬儀の席で、私は東京電力社長・南直哉氏のバランス感覚のいい抑制された弔辞に落涙したのだった。
 人材育成にとって大切なのは「物事の本質を見る目」を養うことであり、「価値の分かる人間」を育てることである。それには幅広く奥行きのある知識と教養を身につけ、豊かな体験をし、鋭い知性と感性を磨くチャンスを与えることだ。もちろん本人自身の「真摯な努力」が重要であることは言うまでもない。「人づくり」とは、常にここに原点を置くものでなければならないのである。

 女性に「説明員や取材対応をさせる」手法は、私が平成8年10月17日、旧通産省科学技術庁原子力安全委員会の委員に意見陳述した際「提案した」もので、その後、各原子力発電所で実施するようになった手法である。原発問題についての長い取材体験から、「女性の皮膚感覚、女性の目線」の重要性を実感として認識しているためだ。

 原子力機構は平成17年10月、前組織の在り様を総点検し、より民間に近い「普通の研究機関」として再スタートを切った。そのため「人材の宝庫」と言われる東京電力から現職の副社長を招聘(しょうへい)、副理事長を委嘱すると共に「もんじゅ」担当の本部長に据えたのだった。原子力工学の専門家である早瀬佑一氏は、早速、東京電力で培った経営感覚を発揮、システム全体に民間の手法や活力を導入したのを始め全職員に意識調査を実施。それを基にした目的意識の共有化策、情報流通のスピード化とオープン・マインドの確立など、従来の官僚的な組織からの脱却を意図して改革を断行、風通しのいい、明るく、気さくな組織体へと衣替えたのである。

2013年2月3日日曜日

5年前の投稿再掲 政治的除算術(引き算)の醜悪さについて

2008-05-15 ロバート・キャパの写真【社会人】 編集


[]私が集団的営為としての笑い(特に嗤い、哂い)や「祭り」が嫌いな訳CommentsAdd Star

1944年8月19日、連合軍がドイツ軍をフランスシャルトルから追い出すやいなや、市民はフランス全土で同胞が同じ状況で行ったことをした。つまり、敵に援助や慰安を与えた疑いのある地元民をすべて逮捕し、罰として女性の頭を剃った。男性の多くは、銃殺執行隊に射殺された。キャパは、ドイツ兵の赤ん坊を出産し、自分の母親とともに処罰された若いフランス人女性に焦点を当てた。ふたりの女性は町の通りで見せしめにされ、民衆はあざ笑った。
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 あざ笑った人たちが肖像権を、主張して、「かつてそこにあった事実、表情、シーン」を否認しうるものでしょうか。私はそれには否定的です。
 また、今の時代になってみれば、この母娘をせせら笑った人たちはたとえようもなくグロテスクに見えますが、それをその当時非難したところで、顔を真っ赤にしてこう返されるでしょう。
「お前は、ドイツ人が、レジスタンスの報復に、村を屠ったのを覚えていないのか?捕らえられているわがフランスの青年達を1対100の比率で銃殺したことはどうだ?あの女たちは同胞の苦境を省みず、敵側と通じていたのだ。頭を剃られて嘲笑されるくらいは、寛容すぎて涙が出るほどだ」と。
 こういう「わが方」に残を残す一方向ベクトルの政治的除算は、固有名詞を変えれば、多くの場所でグロテスクな行いを正当化するのに使われてきました。これからも同じなのでしょうか?

2013年1月6日日曜日

朝の出勤時の写真

池袋駅 メトロポリタン口にある某塾の看板

しかし、塾の宣伝というのは、統計的なスクリーニングを経ていない野放しのものが多いとつくづく思います。せめて不動産業界なみに、幻惑させることを目的とした広告や、いつも「ちから」「ちから」のハイパーインフレ、とことんなる言語明瞭意味不明 言質なしに聞こえのよさそうな台詞のみの大量拡散に歯止めをかけられないものでしょうか。

日曜出勤の朝

① 朝、ゴミ箱がいっぱいになったらすっきりしない気分になりませんか。

押入れの中にあるゴミ袋にごみを移動すればすっきりします。きれいなゴミ箱(空かほとんど空でなければなりません)は部屋の雰囲気を守り立てます。私の好きなカラーはライトグリーンです。

寝室の布団を畳むと、感銘を受けた書物の、筆写ノートを揃えておきます。おまじないのひとつです。効用は知りませんが。

朝、部屋を出る前に、窓をあけ、部屋の空気を入れ替えます。寒くてもこれは大事です。

最近、買った大判の、哲学の歴史(ビジュアル版) ベッドに広げておくだけで幸せな気分になります。


早朝7時に開店した近所のイオンで買ってきたパンです。本日の昼ごはん。

いよいよ出発 (自室の机)

いよいよ出発 (ベッド) 右にあるコルク版は気に入った記事などを貼り付けるのに使います。

いよいよ出発(床) 自室の床を整理するのにはなんと言っても
物を置かないこと。これに尽きます。

自宅玄関を出たところです。