2012年9月23日日曜日

2007-03-24 みんな貧しかったわけではないでしょう 編集CommentsAdd Star


http://sessai.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/httpwwwkahokuco.html
 この案件に関して、少し緻密に書いてみる。
 東北地方のブロック紙『河北新報』に興味深い記事がある。「時よ語れ 東北の20世紀22 わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む」と題された記事である。昭和初期の「娘の身売り」の風景が紹介されている。こうした「娘の身売り」の風景を知る上では、古来、冷害と飢饉が続発した東北の実情を知ることが前提である。
 「冷害・飢饉の歴史年表」という資料を観ると、青森県八戸市一帯では、明治以降、昭和二十年までに限っても十四度の凶作の時期がある。ほぼ五年に一度という頻度である。昭和初期、一九三〇年代初頭には、連年の凶作に金融恐慌が重なったために、状況は一層悲惨になった。だから、往時の東北の農村では、女児が誕生することを歓迎する雰囲気があったそうである。「男なら結局、兵隊に取られるだけ…。女なら身売りに出せる…」という理屈であった。往時の東北の農民は、それほどまでに貧しかったのである。因みに、昭和十六年、日米開戦の年は、「皆無作」である。「こんな状態で、よくぞ
戦争をやろうと思ったものよ…」と率直に思う。時代は下って、平成五年は「皆無作」だったようである。
 雪斎が八戸の小学生の頃、社会見学のコースとして設定されたのは、最初は「対泉院」という寺院に行き、次に魚市場に行き、最後に臨海工場群に行くというものであったと記憶する。「対泉院」には、江戸後期、天明・天保年間の飢饉の際の惨状を伝えた碑文があり、その碑文には、「人肉も食べた」という趣旨の記述があったはずである。要するに、「昔は、これだけ酷かったけれど、今は豊かになりました。がんばりましょう」という趣旨のプログラムだったと思うけれども、当時の雪斎には、ただ「飢饉の際のおぞましさ」だけが印象に残った。今は、本当に「貧乏だけは嫌だな…」と思う。故に、雪斎は学生の時分に「併合後の朝鮮半島に大々的な資本投下が行われた」という事実を知り、「何故、朝鮮半島に回すカネがあるなら、東北地方に回さなかったのか…」と訝ったことがある。
確かに、当時はみんな貧しかったんだよと、うなずいてしまいがちな文章ではある。だが、すべてが貧しかったわけではなかった。東北はその冷害が頻発していた時分からしても、西日本より常に貧しかった(白河の北は一山百文)のは確かだ。だが、没落層が出現することは、富裕層の蓄積を妨げるものではない。経済にフィクションを持ち出すのは反則だが、『シンセミア』などはこの種の事柄については絶好の教材だ。
もっとも日本で有名な豪農の本間家がいたのは山形県である。むしろ、零落した層がコントロール可能なマスとして存在するなら、企業家精神の持ち主にとっては飛躍の踏み台になりうる。(現在においても、多重債務者(9割以上は自業自得とは思うが)を糧に資本蓄積に成功したオモテ&ヤミ金融(消費者金融に私は違いを見出さない)、非典型的雇用労働者を活用した人材派遣業者(私はあの野放図な新規参入の大群が行われていることからして、十分な競争環境が出現していないと考える)など現在においても同じみなことだ。
 もちろん、貧しいものを食い物にしてと繰言を述べる気はない。私のイデオロギーリバタリアン同様、「国がきちんと」という政治的サンタクロースに対しては、懐疑的。とはいえ、対中クールビズの雪賽氏には十二分の敬意を払いつつも、上のような言説を眼にすると、私のなかの皮一枚剥いだ「毛むくじゃらの」ボリシェビキが顔を覗かせて、囁く。「マスサラクシ!」「ナッツ!」と
 雪賽氏が紹介した同時代の東北の素封家の暮らしぶりを今に伝えるものが観光資源として公開されている。現在となってはアンティークだが、当時の最先端の物品はすべて買い揃えることが出来た階級が日本にいたことを示している。私は、4年前にこの素封家のかつての金に糸目をつけないコレクション(ひとつの分野ならまだしも、これがまた手当たり次第の分野に及ぶのだ)を眼にしたとき、楽しみながらも、憤怒を感じた。

旧家の町並みと桜の名所で有名な角館のある素封家の戦前のコレクション
http://www.samuraiworld.com/facilities/index.html

雪斎雪斎 2007/03/20 05:36  お読み頂きありがとうございます。
 酒田・本間家の富は、大阪での米投機の結果として得られたものですから、あれを一般化するのは難しいでしょうね。
 東北といっても、羽州と奥州とでは事情が違います。羽州は日本海を舞台にした交易の結果、裕福な商家が出現しましたが、奥州の場合は、そういう例というのは少ないのです。

arkanalarkanal 2007/03/20 18:01  雪斎先生。「東北 豪農」や「奥州 豪農」でぐぐってみましたが、秋田は本当に豪農が多いですね。初見でした。今の東北の雰囲気からすると、新幹線本線が通っていない秋田・山形が岩手・宮城に比べてミゼラブルな指数が強い気がしますが。当時との違いを痛感しました。でも、おしんの故郷のモデルは酒田なんですよねえ。
雪斎雪斎 2007/03/22 04:56  「おしん」も酒田だったから、商家に奉公に行けたのですな。これが太平洋側だったら、即、「遊郭」直行でしょう。
 因みに、太宰治の実家、津島家も津軽です。
 結局、伊達領、南部領というのが、大変だったようです。

crow_henmicrow_henmi 2007/03/23 07:34 南部藩においては津軽藩への対抗意識のためか、実高以上に石高を高く申告し、それだけの役を担っていたため、藩財政の悪さが住民の住みづらさと結びついた部分もあるかもしれません。あて推量以外の何物でもない駄文失礼しました。

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