2012年9月22日土曜日

2007-03-16 強制連行の有無で 編集CommentsAdd Star


強制連行の有無で日本側の責任を否定できると考えているナイーブな人たちは、欧米において黒人奴隷に対して白人は責任を負っていないと主張する人々(現在の欧米にいないわけではないが、完全に政治的に周縁的存在。彼らとの連携?馬鹿な!)と、同類に映るということを弁えておいた方がよろし。
つまりだね、「そうだったのか!! 朝日に騙された」というような反応ではなく、「どっかで聞いたようなお馴染の言い訳だな」と受け止められる危険性の方が高い。
まあ、やるだけやってみればいい。無益な行いでも、何かしら人は学ぶことは出来る。
ただ、勝てはしない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93
誤解も多いが、映画で見られるような白人による黒人の奴隷狩りは、極初期を除いて行われていない。奴隷を集めて、ヨーロッパの業者に売ったのは、現地の権力者(つまりは黒人)やアラブ人商人である。映画「アミスタッド」のシンケのように、解放奴隷でありながら、アフリカに帰ると奴隷商人になると言うケースもあった。しかし、それをもってヨーロッパ人に罪はないとする主張もあるので、注意しなくてはならない。
--奴隷商人はみな、良心をもっていた。18世紀のなかばまでは、奴隷制度を国際的な大貿易にとって不可欠なものとして認める人が多かった。奴隷商人は、以下のように考えて奴隷制度を正当化した。奴隷制度はアフリカですでに存在し、奴隷は、黒人自身やアラブ商人によって売られている。それならば、ヨーロッパ人に買われるほうが得である。ヨーロッパ人のおかげで、文明に接する機会が与えられ、アフリカ内部で頻発している戦争にもはや巻き込まれなくてすむ。とくに、キリスト教に改宗することができるし、そのなかでもっとも賢い者は、自ら解放されるであろう!
  ジャン・メイエール 『奴隷と奴隷商人』
http://homepage1.nifty.com/ckasa/mp/mypense72.html

1966年版の歴史教科書「ライズ・オブ・ジ・アメリカン・ネーション」は、南北戦争当時、南部で広く論じられた奴隷制賛成論を2ページにわたって詳述していた。
「奴隷たちには満足な衣食住が与えられ、病人になっても年老いても面倒をみてもらえた。何よりも文明化という点で大きな利点があった。逆に北部の工場労働者たちは解雇の不安に常に悩まされ、工場主に搾取され、年老いたり病気になると捨てられた。この見方は大農園主に特に支持され、小農園主や奴隷を持たない小作農たちにも広く浸透していた」
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-16-3.html
http://www.independence.co.jp/usa/acw/antebellum/1850.html
奴隷制をめぐって繰り広げられているアジテーションは、すでに重要な紐の幾つかを外してしまい、残り全部の紐も、かなり弱めてしまった。アジテーションが今のような状態で続くなら、紐はいずれ全部が外れてしまい、軍事力をもってする以外、州をまとめることはできなくなる。」
 カルフーンが言う「アジテーション」とは、W.ロイド・ギャリソンやルイス・タッパン、アーサー・タッパンらが強力に推し進めている奴隷解放運動のことである。ギャリソンが過激な文言で奴隷解放を主張する会員誌「リベレイター(解放者)」を発行して間もなく、ヴァージニア州でナット・ターナーの乱という奴隷反乱事件が起きた。何十人かの奴隷が集まり、周辺の農園主らを斧・棍棒などで惨殺して回るという恐ろしい事件である。「リベレイター」誌の発行と反乱との間は何の関係もなかったが、南部農園主の多くが北部の解放思想家らは奴隷反乱をそそのかしていると受け取ったのである。
http://72.14.235.104/search?q=cache:ipocftDCVZ4J:www.koma.econ.meisei-u.ac.jp/koji/_to_XMQq.html+site:www.koma.econ.meisei-u.ac.jp+%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E8%B2%BF%E6%98%93%E6%93%81%E8%AD%B7&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
奴隷貿易擁護論の中心的な論点の一つは、奴隷貿易を禁止しても、アフリカ人を救済することにはならない、という点であった。1789年に匿名のプランター(以下では、A氏と表記する)は、アフリカの君主が怒りに任せて臣民を殺してしまうといった絶対的な法の存在や、奴隷貿易が始まるまでは、アフリカ人は戦争ばかりしていて、捕虜を殺していた点を指摘して、このような支配者の下で暮らすことは、自然の心情に反すると主張した。10)もちろん、イギリス人と同様、アフリカ人も戦争をしていて、捕虜を殺すこともあったので、全く事実に反するというものではないが、イメージ戦略のために事実をデフォルメして、他者(アフリカの君主)を悪く表現した。

精神的・性格的に、黒人は野蛮、不品行であり、嘘つきで、放縦、怠惰、復讐心が強く、盗みや賭け事が好きで、馬鹿げていて、鼻持ちならず、鈍感、意固地で、過ちを認めず、大食いであり、生意気、高慢、淫乱であり、本能的情熱・愛欲に翻弄され、野獣であった。そして、文化的・能力的に、黒人は愚かで、異教徒であり、扇情的なダンスを好むと主張された。
 自分と異なることを悪く評価するのが、差別意識の基本である。誰でも自分自身のことはよく理解できるため、自己中心的な人間の場合、個人的性格や社会体制に関する悪口は、相手の特徴を理解しているというより、鏡のように自分自身を明らかにしている場合が多い。この経験則を適用すると、西欧人自身の性格が浮き彫りにされる。






現在の価値判断で当時を裁くなという叫びは、日本においてサヨクをほぼ圧倒してきた保守派といえども情動の虜となり、この問題をひとつの「進捗」の一環であると泰然と受け止められないことを示していて、興味深い。私はある種の規範作成として「前方への突破」を図る論陣を主導することが、日本側の立場回復に益があると思うのだが、どうも「相殺論」「スティグマメソッド」「闇の執行部」説とロジック的に見ても益がない、泥の投げつけあいに終始している。
新たに規範が確立するに至った過程の参考事例
http://www.iswatch.net/Texts/Price.html
対人地雷は、最近まで通常兵器の一つと考えられ、機関銃や戦車などと同様、必要悪として存在が認められ、とくに問題視されることはなかった。なぜ短期間に新しい国際規範が生まれ、百二十カ国以上が対人地雷全面禁止条約を締結するに至ったのであろうか。プライスによると、対人地雷禁止規範を国家に受け入れさせるために、脱国家市民社会は次の四つの政治戦略(彼は、「教育技法(pedagogical techniques)」という言葉を用いている)を採ったという。(1) 情報提供による課題設定、(2) ネットワークの形成、(3) 既存規範への「接ぎ木」、(4) 立証責任の転嫁である。

国際社会には、リアリストの描く世界像とは異なって、国家以外にも無視できない行為主体が存在しており、非国家主体のネットワークが国家を内外から包み込むように形成されつつある。国際場裡(アリーナ)は物質的パワーのぶつかりあう場であるとともに、言説のパワーが強力に作用する場でもある。世界には意味が充填しており、規範という形で国家の行動を規制している。これまでも、ある時点まで許されていた行為に対して、規範によって禁止が制度化された事例は数多い。たとえば、海賊行為や奴隷貿易、稀少生物の取引、植民地支配などである

規範はひとたび確立すると不可逆的な効果を持つ(これを「進歩」と見なせるかどうかは別問題である)。リアリストは、当為(すべき)と存在(である)を明確に区別することを力説し、「すべき論」はユートピア的であるとして退けてきた。しかし、現実の国際政治には多くの規範が存在し、規範を直視しないことこそ非現実的であることを、われわれは二つの世界大戦と冷戦を経験したのち、再発見したのである

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