2012年10月30日火曜日

2012-03-14 小島氏と安田氏

2012-03-14 小島氏と安田氏 編集


[]小島正憲CommentsAdd Star

読後雑感より
http://shakaidotai.com/details8021.html
1.「中国・電脳大国の嘘」  安田峰俊著  文藝春秋  12月20日
  副題 :「ネット世論に騙されてはいけない」
  帯の言葉 :「中国に幻想を抱くな! そんなの全部“嘘八百”!?」

 また頼もしく、愉快な若者が登場した。著者の安田峰俊氏は29歳の若者である。安田氏は本文中で、かなり加藤嘉一氏を意識して持論を展開しているが、このように若者たちがお互いをライバル視して、競い合う姿を見て、私は頼もしく、ほほえましく、かつうらやましく思う。私は安田氏の前著「中国人の本音」を読んだときは、このような感想を抱かなかった。しかし今回の著書では、安田氏自身が若者らしく謙虚に前著を振り返っている。このくだりを読み、私はこの若者のすがすがしさ、素晴らしさを改めて認識することができた。この本は学術的にも評価されるべき水準を備えていると思う。その意味で、この本にジャーナリスティックなタイトルが付けられたことは、誠に残念である。

 安田氏は、「言うまでもなく,2010年に発表した処女作“中国人の本音”でこれらの話題を肯定的に取り上げ、“中国の変化”への期待を隠しきれなかった筆者自身からして、往年の“カン違いの歴史”を忠実に踏襲した“バカ”な日本人の一人である。筆者はこれ以上手遅れになる前に、他の“中国業界”の人々に先駆けて、前著における自分の主張への部分的な修正と、それに対する自己批判を本書でおこなっておこうと思う」と、転向の弁を語っている。私は安田氏の主張の是非はともかく、この潔さを支持する。まだ若いのだから、前言に拘泥せず、面子もなにもかも捨て、真実を追い求めればよいと思う。

 安田氏は、高速鉄道事故後の上海や杭州の現地状況を歩いて回り、「今回の高速鉄道事故後の上海や杭州の街に、“世論の沸騰”はほとんどみられなかった。“沸騰”していたのは、“微博”に代表される中国のネット上の書き込みと、それをセンセーショナルに取り上げる日本の国内報道だけだったのだ。現地の社会とネット上の社会では、さながら別の中国が存在するかのようだった」という調査結果に辿り着いている。そして「ネット上の自由な気風や活発な言論が、“中国の民主化”や“一党独裁体制の打破”への道を開いていくのではないか―?といった意見も、近年は日本を始めとした西側のメディアや識者を中心に少なからず見られる。重ねて書いておくが、ほかならぬ筆者自身、2010年の春に刊行した“中国人の本音”では、似たような主張を行っている。だが、過去の筆者を含めて、こうした楽観論には中国のネット世論が孕む根本的な問題点を考慮していない意見が多いように見えることも事実である」と、自省している。

 その上で安田氏は、ネット世論をその質と量の両面から分析し、「中国の5億人の“網民(ネット利用者)”の大部分は、政府批判や民主化議論のためではなく、友達との雑談や女の子のナンパ、株などの金儲け、有名人へのミーハーな追っかけ心理、もしくはタダで映画や音楽を楽しむなどといった、きわめて人間臭い動機からインターネットを利用しているだけである」と喝破し、「日本では数年前まで、大手の報道機関やまともな中国ウォッチャーであるほど、“中国のネット上の書き込み”の内容を、一般の情報よりも一段劣った信頼できない情報として扱う傾向があった。だが、2010年ごろまでにこうした姿勢が180度転換していき、現在では中国で起きた些細な事件でもとりあえず“ネット世論の反応”を引き合いに出すような新聞記事やニュース番組・書籍などが、かなり多くみられるようになった」と説明している。そして「こうした一連の論調は、中国の全人口から見れば数%程度にすぎないごくわずかな人々に対して、日本人の願望を過度に投影するがゆえに生まれているのではないか。ここでいう“願望”とは、中国人は共産党政府に対して爆発するほどの不満を持っていてほしい、中国はなにかのきっかけで民主化してほしい―。という、日本人の中国に対する一方的な理想論に基づく幻想のことだ。われわれ日本人は、この幻想のフィルターを常に目の前に被せながら“ネットが中国を変える!”と薄っぺらい言葉を掲げて大喜びしているのである」と断じている。まことに辛辣だが、至言だと私は思う。

 さらに安田氏は、「われわれ西側諸国の住民たちが考えているほどには、民主主義は世界のあらゆる国家にとって、ベストな体制とはいえないのである」、「仮に政権が倒れたところで、反体制運動を思想面でリードしていた上品でリベラルなインテリたちが、“次”の中国の政権を担える保証はまったくない」と書き、「過去の事例から判断する限り、上品で知的で控えめなインテリは、中国の支配者にはなれない。たとえ最新技術であるインターネットの力をもってしても、中国という国の性質が根本的に変わることはない。中華王朝数千年の統治の伝統は、たかがネットごときで変わるほどヤワではないはずである」と結んでいる。この指摘には、私も同感である。なお、この章の“壁破り”ネット利用者と孫文や共産党創始者とを比較分析して、その類似性に言及している点は、参考になる。

 私は、安田氏の「ネット世論が、中国を民主化するなどという幻想に騙されてはいけない」という主張に反対ではない。たしかにネット世論などという得体の知れないものに、幻想をいだくべきではない。しかしながら、今やインターネットが中国社会の末端の出来事まで、リアルタイムで一般社会に浮上させてしまっており、しかもそれらは中国政府に不都合なものが多い。さらにそれらは瞬時に海外に漏出するため、全世界に曝され、場合によっては中国政府に批判が集中する事態となる。その結果が中国政府への外圧となり、それへの政府の対応策を妥協的な方向に傾かせることになる。私は、ネットのこの影響力は無視できず、やがてボディブローのように利いてくるのではないかと思っている。

この書評に対する安田氏の反応。小島氏の名を挙げることは避けているが、彼以外には読み取れない。

しかもだ。俺が叩く気満々だった「PCもろくにできないのに偉そうに中国のネットが云々語ってるおっさん」たちは、本の内容を曲解し「やっぱりわしらが苦手なネットなんて、大した影響なかったんや!」て「安田が転向した。感心な若者だ」で喜んで褒めとるし。お前に褒められても嬉しいないわい
2012年2月20日

posted at 00:47:05

読み手の、私たちは貴方のお母さんではないのだから、あなたの「嫌だ」という感情表明をどれほど啖呵をきって語られようとも、たいした意味は持たない。安田氏は老化が加速する30代前にこういった基本を身に着けたほうが良い。もちろん、世間一般では身に着けないまま、40、50になっている連中が多いことを承知してはいるが。
納得しがたいのなら、条理を尽くして丁寧に、曲解部分、誤謬部分、失念部分などを切り分けて提示すればいいものを。
以前のツイートで
2012年02月22日(水)20 tweets
芸風といって、すくなくとも修士課程を経た学究が言い訳するのなら、以後自身の語りは、吉本新喜劇のそれと同じく、合成笑い声と一緒にお読みくださいと但し書きをつけるべきだろう。君のテレビ局楽屋での抒情的な加藤氏への失望もね。この種の言い訳を呈する『藪の中』の信憑性は極めて低くなるがね

posted at 23:34:37

とにもかくにも、メールのやり取りやブログ上の言葉といった、文言上のソースが逆提示される可能性ということまで考えが及ばずに、ツィッター上で自己慰撫にいそしむという幼さ、考えの及ばなさに当該人物に対して失望した次第である。

posted at 23:11:22
事実や人と人とのやり取りを、都合よく変形してこしらえて提示するという嗜癖というものは完治しないだろう。当方としては、彼のまとめ方は彼の自由だが、元になる全てのやり取りを公開して、果たしてそのまとめ方に彼自身の卑小な自己慰撫が含まれていないかどうか、読み手が判断すべきであると結論。

posted at 23:06:41

で、記述しようとしたことが、インフルエンザ療養中の本日になって、ようやくこなすことができます。
安田氏自身は、メールは私信なので公開は控えるようと最後に通告されましたが、自己ツィッターで、名指ししないものの揶揄嘲笑する彼の性向。それだけならまだしも、事実とはまったくありえ無いものを巧妙に混ぜて印象付けようとする卑劣漢(ひれつかん)には、対世間的な自己客観視という体験が必要でしょう。つまり、公開するということです。

では、
時系列ー1
http://d.hatena.ne.jp/arkanal/20111102/p1
2011年11月2日のarkanalの日記
『独裁者の教養』
時系列ー2
http://d.hatena.ne.jp/arkanal/20111114/p2
2011年11月14日のarkanalの日記
ガラガラポン主義者の蹉跌ー安田峰俊氏
時系列ー3
安田峰俊氏よりarkanalへの私信1
2011年11月22日
arkanalさま
突然のご連絡、失礼いたします。
ブログのご記事を拝見してメールをお送りさせていただきました。
ライターの安田峰俊です。
さて、まずは諸般のご指摘について、何よりも感謝申し上げます。
特にジエム政権と韓国軍の関係については、まったく私の知識不足による誤記であり、
学兄の的確なご指摘に蒙を啓かれた思いです。
その他、スターリンの解釈や結論部分についてのご意見、「羊頭狗肉」とのご批判については、
私との解釈の相違によるものかと存じますが、
書籍は常に批評を受けるべきものでありますし、さまざまな意見や情報が提供されることに異存はございません。
ただ一件、学兄が誤解をなさっている部分についてのみ、
以下にご説明をさせてくださいませ。

>まず、第一に、禅宗中央の場所はどこかということです。
>臨済宗なら、京都妙心寺が最大宗派ですし、そのほかの宗派もおおよそ鎌倉建長寺派を除けば、西日本(フォッサマグナの西)に位置しています。
曹洞宗なら、福井県永平寺派と神奈川県鶴見総持寺派がたすきがけ人事を行っている模様です。
>いずれにせよ、首都圏と西日本でなら、受け止め方に大きな違いがあるのは当然ではありませんか。
>そこを無視ないし、さらりと触れて憤激を煽るという手法は、空間の差を斟酌しない断罪だと思います。
>鶴見総持寺もしくは別の宗派でも、首都圏のホテル会場などでの酒宴なら、安田氏の煽りも、多少理解できますがね。
本件に関してなのですが、公言が憚られたゆえに伏せた部分についてご説明しましょう。
まず、宗派は曹洞宗。ここでいう「中央」とは、曹洞宗宗務庁付属の曹洞宗総合研究センター。
住所は都内の芝公園近辺。宴会場は同じく都内の白金台駅付近の八芳園(http://www.happo-en.com/banquet/work/02.html
)となっております。
既によくご存知かも知れませんが、
永平寺や総持寺といった修行道場は、中国共産党体制で喩えますと人民解放軍に相当する実戦部隊、
一方で宗務庁は、党中央に相当します。
総合研究センターは、さしずめ中央党校+イデオロギー宣伝部といったところでしょうか。
(たとえば、宗派のスローガンや刊行物の宣伝方針、布教師の布教内容といったものは、修行道場である永平寺や総持寺ではなく、
 宗務庁や研究センターで決定されます。要するにここに所属する僧侶たちは「曹洞宗の教義を作る当事者」ということです)
学兄も既にご指摘の通り、彼らは都内において昼下がりにあの地震に遭遇し、
その夜に宴会場で前もって予定されていた宴会をキャンセルせずに実施した、ということになります。
ちなみに、その日の夜の宴会とは、センター修了生の学僧たちの謝恩会であり、
急を要するものでも、宗教的な意味を持つ行事でもありませんでした。
時間的経過の問題については、既によくご存知の通り、地震発生から宴会開始までは数時間以上のタイムラグがありました。
本件の当事者たちは津波の様子をテレビで見て知っていた上で、誰も宴会の中止を申し出ようとせず、
犠牲者や行方不明者の無事を祈ったり、築地本願寺のように宗務庁を開放したりもすることなく、不要不急の謝恩会を実施しておりました。
重ねて申しますが「生きているいまを大切に」「かけがえのない命」といった教義やスローガンを作っている張本人である方たちが、
そういうことを何も問題意識も持たずにおこなっていたわけです。
やはり、彼らの鈍感さには
内部の者ならずとも怒りを覚えて然るべきところではないでしょうか。

私が本件について場所と背後の状況を書かなかったのは、詳細が「あまりにもひどすぎたため」です。
以前の職場であり、そこに現在も籍を置く知人もいるだけに、あからさまに組織を特定できる形での批判が憚られたこと、
また特殊な組織の特殊な宴会であるため、すべてを説明していると本の内容とは別のインパクトが強くなりすぎてしまうこと、
これらが、詳しい記述を控えた理由となっています。
(もっとも、学兄のような誤読を招いているのは、ひとえに私の筆力の不足ゆえのことでしょう。
 いっそ書かない、という選択肢はあったはずです)

>あの夜、アルコールが嗜める体質の人間で、かつネット喫茶など飲酒不可でない場所に身を置いた人間で
>同胞の突然の大量死という事態(まさか2万人を超えるとはその時点では誰も思わなかったものの、深夜には1000人強であることは承知されていました)に、
>慄然として身を正して、酒を控えた人間の割合がどれくらいのものでしたか。
私自身の311は、一人暮らしのアパートの1階で余震に怯えながら蒲団にくるまっておりました。
誰もが怖かったはずです。もし身近に誰かいれば、私自身も気を落ち着かせるために、一緒にお酒でも飲んでいたことでしょう。
友人のなかには、あの日、カラオケボックスに入って一晩中歌っていた人や、ラブホテルに入ってお姉ちゃんを呼んでしまったしまった人だっています。
仕事が忙しくてテレビやネットをあまり見ておらず、惨状を知らずに普通に夜遊びに出ていた人もいます。
それらは市井の庶民としてはありうべき反応のひとつでしょうし、目くじらを立てるべきものではない。
そのようなことへの批判はしておりませんし、する気もありません。
ただ、やはりこうした際に別の行動をするべき、言行不一致を避けるべき人たちというのもいます。
彼らにすでに情報が入っていたなら尚更のことです。
私はそんな彼らを批判して、その姿に不快感を示しているのです。
ちなみに福島香織さんの例のご意見ですが、
福島さんは私の知人ですので、曹洞宗宗務庁の場所や組織を知っているからああ感じられたのでしょう。
あの方は百戦錬磨ですし、それほど素直でもおっちょこちょいでもないと思いますよ。

以上となります。
学兄のご見識への尊敬とご指摘への感謝を改めて申し上げた上で、
上記をもって誤解への説明とさせていただきたく存じます。
それでは、また。
安田峰俊 拝
時系列ー4
2011年11月24日
上記のような言葉を尽くした私信を送った後に、安田氏は自己のツィッターでこのようなことを発信して嘲笑される。
曹洞宗の打ち上げ宴会が、都内であったことを指摘して事実誤認とする。ここまでなら、多少言葉が悪くても正当でしょう。「子どもか、こいつは」と思ったのは「ムキー。素人にムキになるな!ボクは素人なんだ!」 ←ガチでそんなことが出発前にあったという、事実やりとりのまとめ方の方です。何十篇読み返してもらっても、そんな逆切れアンド素人の殻に閉じこもるような解釈の素材となるような言葉・行いは読み取れないはずです。
自己慰撫の為には事実認識すら、都合の良いように変形する、そんなタイプは、幼児は99%そうだし、大人でも何割かはそうだ。安田氏がその種の属性のもちぬしであることを私は始めて知りました。しかも、これが最後ではなかったのです。
「ボクの方が歴史も哲学も詳しいんだい。なんで安田なんかがプロなんだ。○○はどうせ××で詭弁だろ。はい、自称専門家を論破wボクは物知りw」 「あの、直接メールしますがマジで○○です。ソースあり」 「ムキー。素人にムキになるな!ボクは素人なんだ!」 ←ガチでそんなことが出発前にあった
2011年11月24日 dongyingwenren posted at 10:59:16

時系列ー5
2011年11月28日
arkanalの安田氏への返信
安田峰俊様
arkanalです。
ご丁寧な返信痛み入ります。
貴下の新書中の表現が手心を加えた自制に基づくものであるということは了解しました。
ただし、実害と直接連関しない場合の不謹慎という指弾に対しては大きな留保を加えます。
貴下のような辣腕の人間にとっての何らかの益になるようなものになればと思っております。
いずれにせよ、悪い意味でのおっちょこちょいは私のようです。
誤った理解で貴下を批難したことに謝罪申し上げます。
貴下には、これから延々と注目していく所存です。
12月からの勤務先は、ジュンク堂池袋書店から目と鼻の先ですが書店の検索機で貴下の名前と書籍を本屋に寄るたびに打ってみようかなと思います。
それがマーケティング的な意味合いを持つかどうかまったく無意味かどうかは出版社の貴下のご友人にお聞きになればお分かりでしょうが。
曹洞宗の芝にある本部ビルは視覚的な記憶としてもございます。
私は、教育企業の物件担当者としても
毎日、都内とりわけ港区を頻繁にデジタルカメラを持ちながら
歩いていますがその目の前を通った印象からすれば
実務的なビルとして、けばけばしさは持ちませんでした。
また、学僧の謝恩会ですか。2ヶ月の研修を終了した開放感からはっちゃけた飲み会での万歳三唱などを(17年前ですが)証券業界という会社でおこなったことを思い起こすと
相当乱れたのだろうと思います。
いずれにせよ、貴下のメールの内容がおんちょくひでないのであれば私のブログに貴下のメール内容を転載しますが
そのままでよければそのまま
曹洞宗というのがブラインドをかけた形でブラインドをかけるのが良ければその形で(都内で行われたというのが読み手に分かればよいのですからね)
そして、それを貴下に関して述べたエントリーの最上部に
リンクを貼って飛べるようにしておきます。
最後に、安田氏に更なる飛躍とご成功を念じます。
立ち居地は、決定的に異なりますが
貴下を、年間3000労働時間超の一労働者兼読書人として見守っています。
arkanal
時系列ー6
2011年11月28日
安田氏よりarkanalへの返信
尾花様(arkanal注 このメールのアドレス表示からだと思いますが、これはペンネームです)
あのメールは私信ですので転載はなさらないでください。
取り急ぎ。
安田 拝
時系列ー7
2011年11月30日
arkanalより安田氏への返信
この時点で、時系列4の安田氏のメールとは裏腹に腹から舌を出したような揶揄ツイートを読み、当然ながら彼に対する好感情は半減しています。
安田様
了解しました。
転載はいたしません。
ただ、時空間の相違に口をつぐんだままという
私の誤った想定を修正いたしました。
また、貴下の最初のメールにありました
批判は歓迎するという度量に心底感服し
貴ツィッター上の
「僕の方が歴史も哲学も詳しいんだ~」なる揶揄の
いささかキャラ設定が異なる言葉も反芻しましたが
やはり最初の貴下の言葉を尊重し
幾分、思いのたけを追加致しました。
御寛恕頂ければ幸甚に存じます。
それでは
お元気で。
時系列ー8
2011年11月30日追記
arkanalの日記
http://d.hatena.ne.jp/arkanal/20111114/p2
『ガラガラポン主義者の蹉跌ー安田峰俊氏』について
時系列ー9
2012年2月15日
『牛鬼蛇神』について
arkanalの日記
http://d.hatena.ne.jp/arkanal/20120215

時系列-10
2012年2月20日
安田峰俊氏のツィッター
「ヤスダ死ね」とか思ってくれる人、ネットにはいるんだけどなあ。毎回アマゾンに低評価付ける某作家志望者とか、「私は収入が多いので月に書籍代15万円を費やしている。あなたよりも物を知っているのである」とかメール送って来る人とか。(実話)
posted at 01:06:56
まず、第一に彼とのメールは以上の2つが全てであり、その中に「私は収入が多いのでうんぬん」などは入っていないことは一目瞭然です。あたかも、粘着厨(ねんちゃくちゅう)に自己が絡まれているかのように変形して提示しています。こういった、顔を合わせてもない、「言った言わない」の水掛け論にならないやり取りなど、このようにソースを全部開示する腹を相手方が括ったら、自己に都合の良い変形提示など砂上の楼閣なのですが、安田氏がこの種の所業を繰り返す背景は、彼自身の幼稚さ、未成熟もあろうとはいえ、ネットなるものの情報洪水の多さで、過去検証などだれもしはすまいとタカをくくっている今般の風潮もまたあるのだろうと思います。
第二に、月15万の書籍代は、確かに私は自己ブログの中で述べました。私の最も読書代が多かった黄金時代のことですから忘れようがありません。しかし、文言はこうです。

ただ、多分、私は内外ともに多くのルポルタージュを、多分安田氏の数倍(安田氏の同窓たる出版社の編集者も含めて)読んでいますが(別段、これは単純な算数でしかありません。22歳から32歳まで奉職した証券業界で月間家賃5000円の寮(光熱水道費込)にいた私は、月平均15万円を書籍代に投じられた生活を10年間続けましたから、そして、安田氏より私は約10年年長です)、このような下等人間(Untermenschen)としてのラベリングを自己の発表したものの中に平然と使用している例はほとんどありません。それが成功したルポライターならなおのことです。
ゴ・ジンジェムの死亡と韓国軍のベトナム派兵は、ケネディ政権下とジョンソン政権下で泰然と分けられることの相違(ちなみに、米軍が軍事顧問団か通常の師団を派遣し始めたのもジョンソン政権から)も指摘出来なかったことは、どちらかといえば些細なことですが、編集者氏についてはこのようなぞんざいな言葉の用法を控えることこそ、安田氏の将来の為にも諫言すべきだったと思います。
おっと、一人思い出しました。成功したルポライターで、悪口雑言を越えた下等人間(Untermenschen)としてのラベリングを繁用していた人物を。
その人の名は、本田勝一です。彼が力量あふれるルポライターであることは、どれほど彼と対岸にある立ち位置の方でも認めているでしょうが、自制というものは、まず自ら発する言葉から始まるものであり、それを野放図に解き放つことは、一時の解放感をと爽快感をもたらしたとしても、発し手を浸食します。それは本田氏の傲岸と迷走からも見て取れます。
以上のブログに書いた台詞から、どうやって「収入が高い」という言葉が導き出されるのか、自分で書いた文章ながら、何篇も読み直しましたが、私は安田峰俊氏ではないから分かりません。
銀行・証券というのは、確かに生涯年収は、かつては高かったものの、90年代は同種規模の企業に比べて初任給水準が低いということは、結構しられていた筈なのですが。
95年入社の初任給は17万2千円でした。残業代も上限があったので、20代半ばでも、給与額面が残込みで40万にいったことは1,2度あるかないかです。業務停止処分や銀行植民地化が進展していった時期に遭遇したこともありますがね
まあ、私が20代当時から車も、飲みも、酒も、賭け事も、女遊びも無縁(激務であったとはいえ、同僚諸氏にそれらにどっぷり嵌っているのを見て失望したものです)であるがゆえ、書籍購入に蕩尽できたという背景もあります。
恵まれていた立場であったことは否定しませんが、私のブログ文章を揶揄するのならば、「収入が高い」などと変形せずに「福利厚生が充実していたので」とか「際立って安い社員寮を利用できたので」という風に表現すれば、このように安田氏自身の、自己慰撫ツイートも足をすくわれずに済んだものなのです。安田氏はそこのところが考えが及びませんでした。
本を買わなくても、日々、生活し、行動するだけで考え思索するネタは枚挙に暇がありません。
新聞の切り抜き(貼るのは時間コストがかかり効率劣位、良策は同じ形のプラスチック容器に入れ参照しゃすいようにすることです。)もそうですし、更に言えば、電車内の雑誌の車内広告ですら、同時代の精神を知る上で参考になります。
年間3,000時間労働、(その中には、旧日本軍ー自衛隊の実務的意義とは無縁の容儀(大声での企業版軍人勅諭絶叫、会議の机の配置の右往左往、くだらない上長のつまらない自慢話に首ふり人形のようにうなずくカルチャー)が相当の比重を占め、しかも、年間1000時間以上の残業代などゼロ査定なのですから、自分の時間を少なからず有している安田氏には、羨望感を持っていたのは許していただきたいものです。
最後に、この種のやり取りの中で、相当気分を害した程度には、また私も、虚栄ないし自己愛(天が与えたアヘン)

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の虜であることはいえそうですが、
このインフルエンザ病気中に、敬服する文章の発し手である小島正憲氏や内藤ジュリア氏がこぞって安田氏の著作を高く評価しているのを眼にして、改めて氏の作品群に向かい合ってみたいとは思い直すようになりました。
才能と情念の持ち主なのですから、ツィッター上での底が割れるような自己慰撫に耽ることなく、著作を生み出していただきたいものだと祈念するものです。
以上
追加
当日の深夜、安田氏よりメールを頂きました。
題:残念でした
本文:
私が言ってるのは「ネットは中国を変える」著書がある某右派系の男性ジャーナリストのおじさまのことですよ。安田は彼みたいなスタンスを叩こうと思ってたのに、あべこべにメルマガで安田の本を褒められたという。
数か月前のログまであさってがんばられたのに残念でした。
ちなみに小島氏は、ひとりよがりで中国がわかった気になっている夜郎自大なおっさん、という印象で個人的に好感を持っていませんが、逆に言うとわざわざ非難するべき人ですらないです。
なるほど、メルマガを配信する右派系の男性ジャーナリストねえ。宮崎正弘氏のことが念頭に思い浮かびますが、勘違いでしたら悪いことをしました。
宮崎氏の信用度は、彼のセンセーショナルな著作一覧とこの20年間の年表を並列するだけで、半値八賭け二割引になってしまうものですが、私としては随分と「低い鞍部」の敵を設定されたものだとの印象です。
私も早合点したのは悪いとは言えますが、安田氏ご当人は、ご自分自身が「おっさん」たち、と複数形で書いたことをどうやら都合よく失念されているようですね。
「たち」が無ければ、宮崎正弘氏限定との後付も説得力を有したでしょうに。
小島正憲氏には、わざわざ相手にするに及ばないですか。近衛公爵声明じゃあるまいし……。
まあ、評価・心服の基準というのは人それぞれですからね。私は、読書人としても定期観測としても彼を高く評価しています。彼の読後雑感などは啓発的なものとして読んでいます。また経営者実務家らしく、文人(学者、ジャーナリスト)にありがちな攻撃性向を抑制できている点でも、尊敬すべき存在だと思っています。
追加 (3月24日)
小島正憲が念頭ではなく、宮崎正弘氏を念頭だったという種明かしがされたとはいえ、私のエントリーが全部残念でした、と無意味化できるとは、これも新種の阿Q思考としかいいようがありません。今回の安田峰俊氏の揶揄的表現で言えば、「過去のエントリーをあさって」、浮き彫りにしたのは、安田氏自身の、事実変形の癖と、しかもそれを反証可能なフィールドであることに考えが及ばぬ粗忽さ、うかつさということであり、安田氏自身が阿Q思考で、「残念でした」と舌を出そうと、事の本質はなにひとつ変わっていません。
安田氏自身が、今後もモノカキとしてやっていくのなら、以下の言葉をかみ締めるべきです。
「人は自分の意見を持つ権利がありますが、事実をねじまげる権利はありません」 アラン・グリーンスパンの米国議会公聴会での発言より

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