2008-05-15 ロバート・キャパの写真【社会人】 編集
■[社会人]私が集団的営為としての笑い(特に嗤い、哂い)や「祭り」が嫌いな訳
1944年8月19日、連合軍がドイツ軍をフランスシャルトルから追い出すやいなや、市民はフランス全土で同胞が同じ状況で行ったことをした。つまり、敵に援助や慰安を与えた疑いのある地元民をすべて逮捕し、罰として女性の頭を剃った。男性の多くは、銃殺執行隊に射殺された。キャパは、ドイツ兵の赤ん坊を出産し、自分の母親とともに処罰された若いフランス人女性に焦点を当てた。ふたりの女性は町の通りで見せしめにされ、民衆はあざ笑った。あざ笑った人たちが肖像権を、主張して、「かつてそこにあった事実、表情、シーン」を否認しうるものでしょうか。私はそれには否定的です。
また、今の時代になってみれば、この母娘をせせら笑った人たちはたとえようもなくグロテスクに見えますが、それをその当時非難したところで、顔を真っ赤にしてこう返されるでしょう。
「お前は、ドイツ人が、レジスタンスの報復に、村を屠ったのを覚えていないのか?捕らえられているわがフランスの青年達を1対100の比率で銃殺したことはどうだ?あの女たちは同胞の苦境を省みず、敵側と通じていたのだ。頭を剃られて嘲笑されるくらいは、寛容すぎて涙が出るほどだ」と。
こういう「わが方」に残を残す一方向ベクトルの政治的除算は、固有名詞を変えれば、多くの場所でグロテスクな行いを正当化するのに使われてきました。これからも同じなのでしょうか?
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