アレクサンドル・ジノヴィエフ 『余計者の告白 下』 自伝より
元モスクワ大学教授、世界的な論理学者、小説家。1922年、奥ロシアの寒村に生れる。ロシアの農村を根底から変えた「集団化」を体験11歳でモスクワに上京する。貧困と飢餓のなかで学業を続けるが、次第に共産主義社会の矛盾に目覚め、スターリン崇拝に抵抗。そのため放校処分、精神鑑定、ルビャンカ監獄拘留等を受け、以後逃亡生活を送る。やがて身を隠し入隊、第二次大戦中は、空軍パイロットとして名を馳せる。
戦後、「共産主義社会を律する客観法則」の解明をライフワークとし、フルシチョフ政権下、論理学主任教授となる。1976年、諷刺小説『恍惚の高み』(ユーロッパリア賞受賞)を出版、国外追放処分を受け、西ドイツに出国。ミュンヘンに在住していたが2007年死去。著作に、評論『現実としての共産主義』(トクヴィル賞)、小説『カタストロイカ』、詩画集『酔いどれロシア』等がある。
92pより引用 (97年にこの著作との邂逅、07年に再会)
ジノヴィエガ
以上に述べたことは私の国家の知的様相に関することである。外的様相に関しても、私は行動規則のひとつのシステムを構築した。学生たちは、このシステムをたわむれに「ジノヴィエガ」と呼んだ。
ジノヴィエガは私の個人使用向けに作られた。時々友人たちにその話をすることもあった。たいていは笑い種になったが、話し相手の何人かはそれをまじめに受け取って、実行に移す者までいた。そのいくつかの要素は、私の本のなかで開陳したことがある。『ゴルゴダへ行け』では、それは主人公イワン・ラプチェフの名をとって「ラプティズム」とか「イワニズム」とか呼ばれている。当然のことながら、私の教えは文学的形態で表現されており、私自身の教理にはない余分なものも多く含まれている。
ジノヴィエガはある種の宗教、とりわけキリスト教や仏教の周知の形態に似ている。違うのはそれが、20世紀後半に神なき社会で成長した教養ある人間のために構想されたものだということだ。それに、ジノヴィエガは自己に閉じこもることを正当化するためのものではない。それはソヴィエト社会でふつうに生活する人間、つまり集団のなかで働いて、その職責と社会的義務を果たし、公共輸送手段を用い、行列に並び、家族関係や友人を持たねばならない、そんな人間の使用に供されるものである。作品の主人公イワン・ラプチェフはジノヴィエガを次のように定義する。罪深い生に塗(まみ)れながらいかに聖人たりうるか、われわれの社会の泥沼のなかで、社会が意識の光景に退き、われわれの行為において具体化される固有の基準と価値をもった内的世界が、それに代わって前景に現われるようにするにはどうすればよいのか、と。
以下にジノヴィエガの原則のいくつかを挙げておこう。
私は物質的幸福への願望を捨て去ったが、それは幸福を何がなんでも拒絶するということではない。現代社会には誘惑があふれている。しかしそれは同時に、わずかなもので満足する可能性、何ものも所有せずにすべてがある、という可能性を作り出した。
すべてを失うよりは何も持たない方がよい。自分の生活を、所有せずとも存在するというふうに構成しなければならない。失うことを学べ。自分の損失を納得し、埋め合わせを見つけるすべを学べ。なしですませられるものは買うな。
快楽への願望はわれわれの時代の典型的な病気である。この疫病に抵抗せよ、そうすればおまえは、本当の歓びが「生きる」という単純な事実のうちにあることを知るだろう。そのためには、素朴さと明澄さと節度と道徳的健康といった、現代ではまったく稀になってしまったごく単純な美徳が必要だ。大部分のソヴィエト人にとって、日々の生活の貧窮と、喜びをもたらすあらゆるものの欠乏は、無視することのできない現実である。この生活と折り合いをつけ、何らかの埋め合わせを見出すことを考えなければならない。そのための唯一の手段は(生活の目標が物質的幸福のための闘いでないとすれば)、精神性と精神的交流を発展させることである。人間が幸福を求めるというのは本当だ。けれども限界のない幸福、いっさいの自己抑制のない幸福というものは存在しない。幸福は、節度の報酬でしか、自己抑制の結果でしかありえないのだ。もしおまえが日常生活で自制すれば、おまえのエゴは他の地平を振り向くだろう。そのとき初めて幸福は可能になるのだ。言いかえれば、それはつかの間のはかない幻影でしかない。満足は周囲の状況に打ち克つことから生れる。しかし幸福は自分自身に対する勝利の結果なのだ。
私はそれぞれの人間のうちに私と同じような主権国家を認める。それはその人間の社会的地位とか年齢、性別、教育水準には関係しない。人々に対する私の姿勢は、彼らの序列や富や名声、あるいは私にとっての利用度などには左右されない。私にとって重要なのは、彼らの魂と人格の発達度だ。だから私は次のような原則を採用している。
おまえの尊厳を守れ。 他人と距離をとれ。 独立行動を保て。 他人を尊重し、彼らの弱さには寛大であれ。 身を落とすな、どんなに高くつこうとも人に諂(へつら)うな。 誰であれ、たとえ軽蔑にしか値しない有象無象でも、けっして見下して扱うな。 天才は天才と呼び、英雄は英雄と呼べ。 何でもない人間を賛美するな。 出世主義者や策謀家、中傷屋やその類の連中には近づくな。 議論せよ、しかし言い争うな。 話せ、しかし、無駄な長広舌はよせ。 説得せよ、しかしプロパガンダはやるな。 おまえが質問を受けているのでなかったら答えるな。 質問されたら問われたことにだけ答えよ。 人目を惹くな。 なくてすませるなら他人の手は借りるな。 おまえの援助を押しつけるな。 人と近すぎる関係はもつな。 他人の心の内に入り込もうとするな、そして他人もおまえの心中に入り込ませるな。 約束を守れる確信があったら約束せよ。 約束したら何としてでも約束を守れ。策謀や奸計を弄するな。 説教するな。 他人の不幸を喜ぶな。 闘いでは敵に有利な立場を与えよ。誰をも邪魔立てするな。 人と競争するな。 空いた道か、他人が進もうとしない道をえらべ。 その道を行けるところまで行け。 そしてもし誰かが同じ道を進んできたら、その道は捨てよ。おまえにとってはそれは方向違いだったのだ。 真理を口に出すのは孤独者だけだ。 もし大勢の人間がおまえの確信を分かちもつとしたら、それはおまえの確信のなかに、彼らに都合のよいイデオロギー的虚偽があることを意味している。 もしおまえが 「である」ことと 「見える」 こととのどちらかを選ばねばならないとしたら、前者を選べ。 栄誉や名声の酔い心地に屈するな。 過大評価するよりは過小評価されるほうがよい。 おまえを判断し、おまえを評価するのは誰かということを想起せよ。偽りのお世辞屋を何千人もつより、たったひとりでもおまえと同じ高みにあるまじめな称賛者をもつ方がよい。
他人に無理強いするな。 他人を強制することは意志の証しではない。 ただ自分自身を拘束することのみが意志の証しである。 しかし他人がおまえを強制することは許すな。 上位の力に対してはあらゆる手段を用いて抵抗せよ。
すべてのことは自分を責めよ。 もしおまえの子供が残酷に育ったら、そんなふうに育てたのはおまえだ。 もし友人がおまえを裏切ったら、そんな友人を信用したおまえに罪がある。 もしおまえの妻が不貞をはたらけば、その不貞をさせたのはおまえだ。 もし権力がおまえを弾圧したら、権力の力に貢献したおまえに罪がある。
人の名を騙って行動するな。 おまえの行為が他人にどんな結果をもたらすかを考えよ。 おまえの行為がよい意図でなされても、それは結果の悪さを正当化するものではない。 同様に、よい結果が悪い意図を正当化するものでもない。
体は目に見えないばい菌に蝕まれる。 心は些細な思い煩いや情動に蝕まれる。 生活上の瑣末事を気にかけないようにせよ。
おまえの行為が客観的に評価されることをあてにするな。 客観的評価など存在しない。 人々はおまえの振舞いを、自分たちの利害や世界観によって判断する。
人はみな違う。 同じ行為がある人々にはよくても、他の人には悪いということもある。 他人の行為を判断するとき、人々はすべての事情に通じているということはまずない。
計画的な嘘や中傷もあるということ、人々は偶像を理想化する傾向がある、ということも忘れてはならない。
だから自分が他人たちに理解されないまま生き死にするということも心得ておけ。 それは一般的な法則だ。
そしておまえが蒙(こうむ)るあらゆる「不正」は死と忘却によって正されることだろう。
自分の振舞いの内的外的な制御を一切もたない人間は、隣人に対して卑劣な仕打ちをすることができる。 そういう者は他の者たちによってしか制御されない。
共同の努力によって、人々は習慣や法律、宗教や道徳といった形態のもとに、制御のシステムを編み出した。
しかしこれらの制限はけっして絶対的ではない。
最良の人間の心中にも内的外的制御が弱まると表面に浮上してくるひとりの下衆(げす)がつねにいる。 だからだれにも心を許すことはできない。
人はいつおまえを騙すかもしれないし、おまえに悪さを仕掛けるかもしれない。 それはとくにおまえの近しい者について言える。
彼らはおまえにひときわ過酷な打撃を加えることになる。 というのもおまえはそれを予想していないからだ。
人間の敵はその隣人である、とイエスは言っている。
人々を信頼するだけで満足することはできない。
人々がおまえに必要なことをなしうるような条件下に置かなければならない。おまえのためではなく彼ら自身のためだ。 おまえが騙されることになりそうな状況は避けよ。
他人への愛着には節度をもて。 そうすれば失望もとりかえしのつかないものにはならないだろう。
女性に関しては慎(つつ)しみをもて。 関係を避けられるなら避けるがいい。 蔓延する性的放縦には身を任せるな。
現実がどんなにばかばかしくても、恋愛に対してはロマンティックな姿勢を保て。 俗悪、浮薄、鉄面皮、卑猥な言葉は避けよ。
羞恥や純潔は、吝嗇や悪癖とは比較にならないほとどの歓びを与える。
おまえの敵たちを軽蔑せよ。彼らの存在が目に入らないかのように振舞え。 彼らはおまえがわざわざ闘うには値しない。 しかし何があろうと彼らを愛すな。
彼らはおまえの愛にも値しない。 彼らの犠牲になるのを避けよ。彼らをおまえの犠牲にするのもまた避けよ。 彼らを人格とみなすな。
おまえを刺す蝿や蚊をおまえは敵とみなすか?おまえの敵のなかに、蝿や蚊やバクテリア、しがないミミズをみるようにせよ。
周到なプロの労働者たれ。 時代の文化の高みにあれ。 そのことは一定程度おまえを保護し、おまえに理があるという内的感情を与えてくれるだろう。
あらゆる類の合同や集団的活動はこれを避けよ。 党派やセクトには加わるな。
集団に深く関わらないメンバーたれ。 策謀には加わるな。
噂や中傷の伝播には手を貸すな。 おまえの原則を破ることなく、独立した地歩を占めるようにつとめよ。 出世はするな。求めずして出世が向こうからやってきたら、その動きを止めよ。 なぜなら、出世はおまえの魂を駄目にするからだ。
創造活動においては、大事なのは成功ではなく出来栄えだ。 もしおまえが、何か新しいもの、重要なものを創出できないと感じたら、おまえの力を注ぐべき別のことを探せ。 一般世論や大衆の嗜好やモードに流されるな。おまえ自身の意見と嗜好を作り出せ。
不法なことは何もするな。 権力のゲームや見世物に加わるな。 物事の公式的な側面は無視せよ。 当局との抗争には入るな。 しかしまたそれに屈するな。 いかなる場合も権力を神格化するな。 当局者は信頼に値しない。 たとえ彼らが真実を言い、善をなそうと努める時でも、その社会的本性からして彼らは運命的に、嘘を言い悪をなすように仕向けられている。 公式のイデオロギーは無視せよ。 注意を払えばそれだけイデオロギーは強くなる。
病気にはなるな。 自分で治せ。 医者や薬は避けよ。 規則的に体操をせよ。 ただし節度をもって。 やり過ぎはここでもまた欠乏と同じく有害だ。 いちばんいいのは、いつでもどんな条件下でもできる訓練システムを作ることだ。 その訓練を毎日繰り返せ。 もし身体の若さを保ちたいなら、精神の若さに意を用いよ。 体の老化は最晩年まで遅らせることができる。 身体的老化が老いや死の恐怖なしにひとつの自然現象のようにして訪れるように、自分の人生を構成することもできる。 重要なのは生きる年数ではなく、長い人生を生きたという感覚だ。ただ内的に豊かな生だけが、生物学的長寿の感覚を与えうる。
人間は独りだ。それは最も耐えがたい状態である。 人生は孤独にできており、他人との接触は互いの魂の浸透のない外面的で偶発的なものでしかない。 人はどんな苦しみに耐えることもできるが、孤独には耐えられない。 孤独につける薬はないし、それを克服させてくれる訓練法もない。 孤独にもいろいろあるが、ひとつの形態はことのほか深刻である。 それは、人々に取り巻かれ、自由に知己を選ぶこともできるが、誰ひとり自分に近しい者を見出すことのできない、そんな人間の状態だ。 群集のなかの人間の孤独は恐ろしい。 その人間は不断に自分の結末を待ちながら生きている。 希望もなく、地平に光もない。 私のシステムは、人間にこのような経験を避けるすべを教える。 それは孤独の予防法、あるいはもっと正確に言えば、人生の避けがたい総括としての孤独への心構えである。 それは全身武装して孤独に立ち向かうすべと、孤独をそれ自体の長所をもつ状態として迎え入れるすべを教える。 すなわち、独立、無頓着、瞑想の暇、損失の軽視、死ぬことへの心構え、等々。
いつも死ぬ準備ができていなければならない。 毎日を最期の一日のように生きなければならない。 おまえの死のあとに何も残らないように生を終えるよう努めよ。 わずかな遺産は笑いものになるのがおちだ。 大きな遺産は相続者のあいだに悪意と憎悪を生み出すことになる。 おまえは呼ばれもせずにこの世に来た。 そしておまえが去っても人は泣かない。 残るものたちを羨んではいけない。 彼らも同じ運命を分かち合っており、私たちはみな遅かれ早かれこの世を去り、やがて誰も私たちのことを知らない時が来る。 まだ健康なうちに死ぬ方が遅くなってから病気で死ぬよりもよい。 弱い者たちは生にしがみつく。強い者はよりたやすく生に別れを告げられる。 死を正面から見つめてゆっくりと死ぬよりも、予告もなしに突然死ぬほうがよい! 背後から殺された者たちは幸いだ!
日常生活のなかで私はこの原則のすべてに従った。ひとつひとつばらばらに取ってみれば、他人の目から見て私を区別するようなものは何ひとつない。 しかし私の全行動を通して表れる一貫した振舞いは、周囲の人々の注意を惹かずにはいなかった。 いくつかの原則は周囲から全面的な賛同を得た。 私は住居や褒章を手に入れたり、位階を昇ったりするために誰とも競争しなかった。 研究計画の枠外で書いた学問的著作についても原稿料を受け取らなかった。 誰とでもよい関係にあった。 友人たちとの夜会にも加わった。 誰にも悪巧みはせず、追従もせず、密告もしなかった。 他人のためにすすんで犠牲になった。 隣人や、援助を求める人はみんな助けた。 もう酒は飲まなかったが、飲み会には喜んで参加し、自分の割り前まで払っていた。 不正に踏みにじられている人々を擁護した。 私は年季の入った話し相手で、他人の話を聞くのに長けていた。
このような振舞いのために私の評判は良く、周囲からの尊敬も受けた。 私には充分な物資があり、それ以上物が欲しいとは思っていなかった。 広い知己の輪があり、弟子や学生たちがいた。 文化の豊かな富に無制限に近づくこともできた。 健康で、快活で、見守る暖かい目もあった。 人間=国家という私の理想は実現に近づいているかに思えた。
しかし現実の生の弁証法が致命的な言葉を告げにやってきた。 理想が完成に近づけば近づくほど、それはいっそう外部からの攻撃を誘いやすくなるのだ。