2012年9月22日土曜日

2006-04-01 「神様はつらい」より引用1

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  1. 「神様はつらい」より引用
知識人プダフとルマータとの会話
「人間の本質は、どんなことにも慣れてしまうという驚くべき能力をもっているということですね」とプダフはゆっくりと噛みながらいった。「人間がなれることのできないものなんて自然界にはありません。馬だって、犬だって、ねずみだって、このような特性はもっていません。おそらく、神様は、人間を創るにあたって、人間がさまざまな苦しみに出会う運命にあることを推しはかって、人間にこのように大きな忍耐力の貯えをさずけたのでしょう。それが良いことか悪いことかはわかりませんけどね。もしも人間にそのような忍耐力がなかったら良い人間は1人残らずとうの昔に死に絶えてしまって、この世には、魂をもたない悪い人間ばかりになっていただろうと思いますよ。だけど、別の面から見れば、堪えしのび、順応するその習慣のために、人間は言葉をもたない家畜同然になってしまって、解剖してみないかぎり、動物と少しも違いがなくなってしまいます。あるいは、たよりないという点では動物以下かも知れません。日があらたまるごとに、悪と暴力の新しい恐怖が生まれていますからね……」
 ルマータはキーラを眺めた。キーラはプダフの真向かいに座り、こぶしで頬をささえて、まばたきもせずに聞き入っていた。彼女の目は悲しげであった。人びとがかわいそうでたまらないのに違いない。
 「プダフさん、あなたのいう通りかも知れない」とルマータはいった。「しかし、私を例にとりましょう。この私はありふれた貴族にすぎません(プダフの広い頬にしわが寄り、その目は驚きと喜びをあらわして丸くなった)。私は学問のある人が大好きです。そういう人は魂の貴族ですからね。しかし、私にわからないのは、あなたがたのように、高い知識をそなえ、そのような宝の唯一の持ち主たちが、そのようにどうしようもないほど消極的なのか、ということです。どうしてあなたがたはそのように黙々として軽蔑に身をゆだね、牢獄におもむき、焼き殺されることに甘んじているのですか?どうしてあなたがたは、知識の獲得というみずからの生活の意味を、悪に対するたたかいという実生活の要求から切り離しているのですか?」
 プダフは空になったピローグの皿を遠くへ押しやった。「ドン・ルマータ、あなたはおかしな質問をなさいますね」と彼はいった。面白いことに、私たちの君主の寝殿官をしているドン・グークもそれと同じ質問をしましたよ。あなたは彼と知り合いですか?そうだろうと思いましたよ……悪とのたたかい! しかし、悪とは何ですか? みながそれをまったく自分勝手に解釈していますよ。私たち学者にとっては、悪とは無知のことですが、教会は、無知こそが善であり、悪はすべて知識から生まれてくるものだと教えています。農民にとっては、悪は税金や旱魃のことですが、穀物商人にとっては旱魃が善なのです。奴隷にとっての悪は酔っ払いで冷酷な主人であり、手工業者にとっては貪欲な高利貸しなのです。とすれば、ドン・ルマータ、たたかうべき悪はそのうちのどれなのですか?」プダフは悲しげに聞き手を眺めまわした。「悪を無くすことはできません。この世の悪を少なくすることはどんな人間にもできません。人間にできることは自分の運命をいくらか良くすることぐらいですが、それですらかならず他人の運命を悪くするという犠牲をともなうのです。残忍さの程度はさまざまでも、国王はいつもいるのだし、粗暴さの程度は違っていても男爵は男爵として生きつづけますし、そして民衆はいつまでも無知で、抑圧者に対しては感嘆を、自分らの解放者に対しては憎しみをいだき続けるものなのです。それというのも、奴隷は、たとえそれがいかに残忍な主人でも、自分らの主人の方を、自分らの解放者よりもよく理解しているからです。なぜなら、どんな奴隷でも、自分を主人の立場に置いて考えることはたやすいのですが、自分を無欲な解放者の立場に置いて想像することは非常に困難だからです。人間とはそういうものですよ、ドン・ルマータ、それに、私たちの世界はそういうものなのです」
「しかし、世界はたえず変わっていますよ、ドクトル・プダフ」とルマータは言った。「国王なんかいなかった時代だってあるのですからね……」
「世界が永遠に変わりつづけるなどということはありません」とプダフは反対した。永遠のものなんて何もありません。変化にしても同様ですよ……私たちは完全さというものの法則は知りませんが、その完全さは遅かれ早かれ達成されるでしょう。早い話が、私たちの社会の仕組みをごらんください。これこそ、幾何学的に整った、見た目にもきちんとした制度ではありませんか!一番下に農民と手工業者がいて、その上に貴族がいて、さらにその上に僧侶がいて、一番上に国王がいるのです。驚くほどうまくできた、安定感のある幾何学的な秩序ではありませんか!天の宝石細工師の手になるこのようにみごとな水晶であってみれば、一体そのなかの何を変える必要がありますか?ピラミッド型の建物以上に安定した建物はありません。そんなことは、いくらかでも知識のある建築家なら誰でも知っていますよ」プダフは念を押すように親指を立てた。「袋からこぼれ落ちる穀粒は、たいらな層にはならずに、いわゆる円錐型のピラミッドになります。おのおのの穀粒がお互いにつかまりあって下に落ちないようにしているのです。人間も同じことです。人びとも全体として何かしら完全なものでありたいと望むのなら、お互いに支えあって、必然的にピラミッドのようなものを作らざるをえないのです」
「まさかあなたはこの世界が完全なものだとは真面目に考えているわけではないでしょうね?」とルマータは驚いた。「ドン・レエバに会ったり、監獄を経験したからには……」
「若いお方。それはもちろんです!この世界の多くのものが私には気に入らないし、多くのものが変わって欲しいとは私だって思いますよ……だけど、どうしたらいいのです?上の人が考える完全さは、私が考えるものとは違うのです。木だって、もしも動くことができたなら、木こりの斧から全力で逃げ出したいと思うでしょうけれど、現実には、その木が自分は動けないと嘆いてみたところで何の意味がありますか?」
「もしも宿命を変えることができるとしたら、どうします?」
「そんなことができるのは天の力だけですよ……」
「しかし、もしあなたが神になったと仮定したとしたら……」
プダフは笑い出した。
「もしも自分が神だと仮定してもかまわないなら、私は喜んで神になりますよ!」
「だけど、もしもあなたが神に助言できるとしたら?」
「あなたはなかなか想像力が豊かですね」プダフはうれしそうに言った。「それは良いことです。あなたは読み書きができますか?それはすばらしい!私は喜んであなたとおつき合いしますよ……」
「お世辞は結構ですよ……ところであなたは全能の神に一体何を助言しますか?あなたが、これこそすばらしい立派な世界だ、ということができるようになるためには、全能の神は何をしたらいいのでしょう?……」
 プダフはわが意を得たりといわんばかりにほほえんで、椅子の背にそりかえり、腹の上で両手を組み合わせた。キーラはむさぼるようにプダフを見つめていた。
「わかりました」とプダフは言った。「私だったら全能の神にこう言ってやります。『神様、私はあなたの計画を知りませんが、もしかすると、あなたは人間を善良で幸せなものにしようとは望んでいらっしゃらないようですね。ですが、それを望んでください!それは簡単にできることです。人々にパンや肉や酒を思う存分与えてください、人びとに牛や衣類をふんだんに与えてください。そうすれば飢えや苦しみがなくなり、人々を分けへだてている垣根もすべてなくなってしまいます』」
「それだけですか?」とルマータはたずねた。
「それだけは不足だというのですか?」
 ルマータは首を振った。
「神様はあなたに答えるでしょう。『そんなことをしても人々の利益にはなるまい。なぜならば、なんじの世界の強き者たちは、私が与えたものを弱き者から取り上げてしまって、弱き者たちは相変わらず貧しいままにとどまるだろうからだ』」
「私は弱きものを護るように神様にたのみますよ。『冷酷な支配者を啓蒙してくださいませ』と私は言いますよ」
「冷酷さは力だ。支配者は冷酷さを失うことによって、力を失ってしまうのだ。そうすれば、ほかの冷酷な連中が彼らにとって替わるだけなのだ」
 プダフの顔から微笑みが消えた。
「冷酷な連中を罰してください」と彼は力強くいった。
「強き者が弱き者に冷酷さを示すことができなくなるようにしてください」
「人間は生まれたときはみな弱い者なのだ。まわりにそれ以上強いものがいなくなったとき、その人間は強い者となる。強い者のうちに冷酷な者が罰せられるようになれば、弱い者のうちから強いものが出てきて、彼らにとってかわる。そして、その人間たちも冷酷になる。だとすれば、すべての人間を罰しなければならなくなる。私はそんなことは御免こうむる」
「神様、あなたは本当によく見通していらっしゃる。それなら、あっさりと、人々がすべてのものを手に入れて、しかも神様からいただいたものをお互いに奪い合わないようにしてください」
「それも人々の利益にはならないだろう」ルマータは溜息をついた。なぜならば、人々がすべてのものを、労せずして、無料で、私の手から受けとるようになったら、人々は労働を忘れ、生活の意欲を失い、私の家畜になりはててしまって、私はそれらの家畜に今後永遠に食料と衣類を与えつづけて行かなくてはならなくなる」
「一度にすべてを与えなければいいのです!」とプダフは熱っぽく言った。「徐々に、少しずつ与えればいいのです!」
「少しずつでいいというのなら、人間たちは自分の力で必要なものを手に入れていくだろう」
 プダフはきまり悪そうに笑い出した。
「たしかに余り簡単なことではなさそうだ」と彼はいった。「いままで私はそのようなことは考えてもみなかった……どうも種が切れてしまったようですね。しかし」と言ってプダフは身を乗り出した。「もう一つの可能性があります。人々が何よりも労働と知識を愛するようにしてください。労働と知識が人々の生活の唯一の生き甲斐になるようにしてください!」
 そういうことはわれわれがやはりすでに試みようとしたことだ、とルマータは考えた。大衆的な催眠による暗示、プラスの方向での精神変革。赤道上の三個の人工衛星からの催眠放射……
「それもできないことではない」とルマータは言った。
「しかし、人類からその歴史を奪ってしまっていいものだろうか? 一個の人類に別の人類をすげかえていいものだろうか? そのことは、地上から人類を一掃し、その後に別の人類を創りだすのと同じことではないだろうか?」
 プダフは額にしわを寄せて、黙って考えこんだ。ルマータは待っていた。窓の外では再び荷馬車が悲しげにきしり始めた。プダフは小声でつぶやいた。
「それなら、神様、私たちを地上から一掃してしまって、改めて、もっと完全な人びとをおつくりください…… でなければ、いっそ、私たちをこのままに放っておいて、私たちに自分の道を歩ませてください」
「私の心は憐れみでいっぱいだ」とルマータはゆっくりと言った。「私にはそんなことはできない」
 そのとき彼はキーラの目を見た。キーラは怖れと期待の入り混じった目を彼に向けていた。
 
世界SF全集 24 早川書房 絶版 1970年初版より

2006-03-31 「神様はつらい」より引用0 編集

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  1. 「神様はつらい」より引用
訳者 飯田規和氏の解説より
①ストルガツキー兄弟の創作には、中篇『脱走への試み』(1962年)の頃からそのテーマに大きな変化がみられる。これは地球の青年が未知の惑星へ行き、そこで封建制とも奴隷制社会ともつかぬ社会に遭遇し、自分らと同じ人間が家畜同然に扱われているのを見て、傍観していることができず、その非人間的な社会制度に干渉しようとして失敗するという筋の物語で、社会発展の歴史的法則の問題、遅れた社会制度を飛躍的に発展させるための方法についての問題、歴史に対する人間の責任の問題などがその思想的内容になっている。人間が他の惑星へ行って遅れた社会制度に出会うというテーマや、現代人あるいは未来の人間がタイム・トラベルの方法で過去の時代にはいりこむというテーマはそれ自体としては決して新しいものではないが、そのテーマをいちじるしく異なる二つの社会体制同士の接触という根本的な観点から取り上げ、それを歴史法則についての認識とヒューマニズム的心情との相克として処理したのは、おそらくストルガツキー兄弟がはじめてであろう。
 このテーマをさらに発展させたのが、この巻に収録されているストルガツキー兄弟の『神様はつらい』(1964年)である。
 
 あるところで、ストルガツキー兄弟は次のように語っている。「私たちの考えでは、現代の文学の課題は、典型的な状況における典型的な人間の研究にとどまるべきものではない。文学は典型的な社会を研究する試みをなすべきである。ということは、人間および人間集団と、人間自身が創りだした第二の自然との間の結びつきの多様性のすべてを検討すべきだということである。現代の世界は非常に複雑で、それを結びつけている糸は数が多く、しかもそれらの糸はひどくもつれているので、文学がその課題を解決するためには、ある種の社会学的な概括化の方法に頼らざるをえず、必要に応じて単純化されていても、特徴的な傾向や法則は保持している社会学的なモデルを組立てるという方法に頼らざるをえない。もちろん、これのモデルのもっとも重要な要素は相変わらず典型的な人間であるが、しかし、その人間は、具体化の方向で典型化された状況においてではなく、傾向を把握する方向で典型化された状況において活動するのである。
②この巻に収録されている「神様はつらい」は、1967年にソ連のSF文集『ファンタスチカ・1966』がおこなったアンケート調査の人気作品の部門で最高点を獲得した作品である。
 最初に、太陽の光が降りそそぐ湖のほとりで二人の少年と一人の少女が中世風の武器をもって遊んでいる場面が出てきたかと思うと、舞台は一変して、血なまぐさい中世の陰気な世界そのものがあらわれる。しかし、そこに登場する中世の貴族ドン・ルマータが、かつてウイリアム・テルの真似をして友人の頭上の標的を射ることさえためらった少年アントンのその後の姿であることがわかるに及んで、事情が少しずつ飲み込めてくる。かれらは地球の実験歴史研究所からこの惑星に派遣されてきた歴史家たちである。すでにこの惑星全体には250人の地球人がいる。かれらのうちの最古参の者はここに来てすでに22年になる。最初の人びとの目的は単にこの惑星の人びとの生活を観察することのみに限定されていた。ルマータ=アントンのグループは恐らくその第二陣で、6年前にこの惑星にやってきた。ルマータたちの任務は、この社会の貴族になりすまして人びとのなかにとけこみながら、消極的に、血を流すことなく、この社会の発展に力を貸すことである。そのためにかれらは、封建制と全体主義が渦巻いているようなこの惑星のアルカナルで、殺される運命にあるこの国の知性(作家、医者、詩人など)を生命の危険をおかしながら救おうとしている。
 かれらはこの惑星の住民にとっては全知全能の神である。この神は地球の未来の人間たちであるがゆえに、強力な交通手段と武器をもっていて、どんなに固い防備をもつ暴君でもたちどころに葬るだけの力をもっている。しかし、「全知」でもあるこれらの神は、歴史の発展法則を知っているがゆえに、外部からの暴力をもってしては歴史の歯車を推し進めえないことを知っている。だとすれば、目の前で悪どい陰謀が企てられ、善良な人びとが無残に殺されていくのをただ傍観すべきなのか?この神たちはヒューマニズムが高度な発展を遂げた社会から来た人間である。従って、「神様はつらい」のであり、もっと性格に、この小説の原題通りに言えば、「神様たることは困難」なのである。しかし、本当に神様たることが困難なのではなくて、人間が人間としてとどまりつづけることが困難なのである。そこにこの小説の現代的意義がある。
 
世界SF全集 24 早川書房 絶版 1970年初版より

2012年7月11日水曜日

マクニールの戦争と世界史

マクニールは一流の歴史家です。特に該博な内容を、抑制の効いた皮肉を込めて記述する部分に私は惹かれます。

395頁
こうして官民間に高速度で循環するフィードバック・ループが生まれ、海軍本部の財政上・経営上の決定と、また表向きは民間企業である武器製造会社の財務上・経営上の決定とは縦横の糸のように交錯し合った。そしてついに、公共政策と、民間企業のポリシーは、二度と解きほぐせないほど緊密な布地に織り合わされたのである。さて、1920年代・30年代のイギリス自由党も、1950年代以降のマルクス主義(もしくは擬似マルクス主義)を報じる歴史家たちも、ひとしくこの官民混合体を批判したのであったが、どちらもひとしく、この混合体の中で支配権を握っているのは民間企業の側だと主張した。かれらの見解によれば、利潤の追求こそはこの混合体を動かすエネルギーであった。それ以外のいっさいはそこからの派生物にすぎず、自分自身も金持ちになり、自分が仕えている株主たちをも金持ちにしようと望む、抜け目がなくて欲深な男たちによって操作されているというのであった。

2012年7月5日木曜日

(言語心理学的短縮)加害者無し、黙認者無し………但し死者あり

(言語心理学的短縮)加害者無し、黙認者無し………但し死者あり

女子アナ・吏良の海上自衛隊メンタルヘルス奮闘記 [単行本]


彼女が非常に、良心的で精力的な人物であることは読んでよく判ります。本の大方もいわゆる被害者意識をリピートするのではなく、国民意識の中に受容された自衛隊員として自然体な口調で好感を持ちました。
ただし、以下のくだりは、非常に抵抗感があります。


34頁
ここではもう少し、海上自衛隊生活における人間関係について考えてみます。
自衛隊では、「いじめ」があったという例は極めて稀です。何をもって「いじめ」というのか明確な定義もないのですが、実態として、集団生活においてまったくのゼロということはないと思います。あまりにも要領が悪く鈍重な人や、自己中心的で極端に空気が読めない人は、集団の構成員から嫌われたり、辛く当たられたりするのがどこの社会でも普通だからです


山下さん、一般論のあとにいじめというのが被害者の自己責任であるかのような印象を与えようとする言葉を続けていますね。狡猾な手口とだけ言っておきましょう。いじめというのが不条理な衝動であること、根絶が無理であることは認めます。でも、これはなぜ犯罪がなくならないのか、なぜ過食や酒癖に溺れるのか、なぜ、こどもは動物や虫をいじめることがあるのか、といった合理的判断を超えた原始的とも言うべき本能から来る所産であることは、これを問題視する人、追及する人(勿論、家族が失われた人は到底このような「天井ないし蓮の池からの」客観視には立てませんが)だって、判っていることなのです。改めて貴方から指摘を受けなくともね。優越心(相手に地団太踏ませたい、辱めたい、恥辱を味合わせたい)という衝動は戦争でもレイプでも同じで、これもまたなかなか根絶は無理でしょうが、貴下のような態度でいじめが明確に定義不能とした後に、まず第一にいじめを主導した人間の心性や、付和雷同する周囲の怯堕、更に言えば、困惑し、もてあそばれ、不安に怯える劣位者を見て密やかに感じるいじめられていない側の満足心(それは3流のバラエティ番組やお笑い芸人のいじめ芸などにもあります)にいっさい触れようとはせず、それ自体としては否定しがたい、いじめられる人間のネガティブな要素に注意を喚起させる。山下さん、貴方は卑劣です。
次に行きましょう。

34頁
しかし、それが組織内で顕在化するかといえば、そうはならないでしょう。人間関係のトラブルは、本人と、ごく近くにいる人にしかわからないものです。何か問題があった場合に、周囲はそれを意図して隠そうとはせずともウヤムヤにしてしまうことが多い。また、いじめられている人を下手に庇うと、自分までとばっちりを受けるから見て見ぬふり、というケースもあるでしょう


ここで、山下氏が、明言する勇気はないが、印象付けようとしているのはただ一つ。いじめがあった事実は確認できなかった――この30年間、数多くのいじめ自殺の後に、当該学校の校長や教育委員会が、自らの責任を少しでも言い逃れようとした言辞の内容とまったく同じです。つまり、上長は知る由もありませんということです。山下さん、あなたも低劣な意味での組織人ですね。
もちろん、いじめの中には隠密裏の中に行われるいじめもあります。そういう、いじめの場合には上長の責任、組織の責任は重過失ではないでしょう。無過失ではありませんが。
ただし、いじめの中には、いじめ行為そのものが、手を出してこない部外者(クラスメート、教員)も含め、日常の出来事として当然のように行われ、そのことがいじめを受ける人間にとっての「生き地獄」としての絶望を亢進し、自殺への「跳躍」を決断させる事例が数多くあったこと。
山下さん、とりわけ臨床心理士のキャリアを踏まえた貴方ならそんなことは、多くのいじめ自殺者の遺言を取り上げた書物などからご存知のはずでしょうに。
そして、自衛隊内の事件でも、牢名主的存在となった先輩隊員が、艦艇内(艦橋含む)でモデルガンで狙い撃ちを含むいじめを繰り返していた事例が、遺族が訴えた事例で明らかになっています。山下氏は意図的にこのような事例を黙殺し、読者に隠そうとしています。


海上自衛隊内で暴力沙汰とか、いじめらしきものがあったと言われているものでも、調査報告書やいろいろな人の話を総合すると、些細なことで騒いでいるだけで、「昔はこの程度のことをいじめとは言わなかった」というようなケースもあるようです


もちろん、そういったケースもあるのでしょう。ただし、山下氏が、被害を訴える側にのみ責を負わせるケースのみ文章化する類の人物であるということも判断しなければいけませんが。
それに、「昔はこの程度のことをいじめとは言わなかった」とはどういう言い草ですか。海軍時代には「修正」というジョージ・オーウェル的なダブルスピークで、精神注入棒での体罰が正当化されていましたが、それを当然とする感覚なのですか。伺いたいところです。

人格を否定するような発言を続けるのはもってのほかですが、拳骨で頭を叩く程度のことは、上司の感覚では指導の範疇。例えば、艦の舵を取るとき、右と左を間違えたから叩いたという場合、それは当然の行為と言えるでしょう。そんなミスをしたら、他の船との衝突事故を起こすかもしれない。そのために死傷者が出る事だって考えられます。常に緊張感が求められる職場なのだから、厳しい指導はあってしかるべきなのです。



山下さん、そういった、都合の良い事例でその他の該当しない事柄もそれに含ませて印象付けようという、詭弁論理用語での「チェリーピッキング」は、もういいですから、そういったウッカリや不用意が大事故(自他ともに)に繋がるような、航空・海上管制官や、建設、バス会社などでの自殺事例の統計数字をご提示いただきたいものです。


とはいえ、一方でそれを「いじめ」と受け止め、心に深い傷を負って、萎縮してダメになっていってしまう人もいます。その結果、ますます「いじめられ役」になってしまうこともあります。そして修復不可能なほど人間関係が悪化してしまうときというのは、当人と誰か特定の人との人間関係が悪くなるというより、全体の輪からはみ出してしまうケースが多いようです。



私は、そういったケースもあると思いますが、そういったケースのみ羅列する山下さんの文章を読んでみて次の見解に至りました。
組織として、風通しが良い風土を口だけではなく本当に求めているのなら、いじめをしている側に、「悪事は必ずばれる」。旧軍のような社会と異なり、可愛い息子・娘がなぜ自殺したのか、親は半狂乱になって原因を追究するだろうし、何年何十年経とうと忘れることはない。その場の、3流バラエティ的もてあそび快楽のために、いじめる人間はいずれ自らのキャリアを失うことになると。こういうことがいじめに対する抑止となりうるのだと思います。もちろん、幾分かは加害者・黙認者の責を追及するという痛みの伴う作業ではありますが、そういったことが当たり前のように行わなければ、組織は淀み、腐ります

[asin:B000GM4CDS:detail]
[asin:B003UTHUA6:detail]

別に、「制服を着た市民」「内的統制」を心がけたドイツ連邦国防軍とはいかなくとも、「個人の自由」「組織の制度設計」をきちんとこなしていた社会は、空気として上述のような矛盾と対峙するシチュエーションの映画ができるでしょうし、山下吏良さんも、内心ではアナウンサーからの、中途キャリア転職を心がけたときに、そのような役割を幾万分の1でも期待したのでは無かろうかと思います。
でも、この国は九州電力のやらせ開き直り、第三者委員会無視のように、上長者がそのふんぞり返った満足感を固持する為に、ほとんどのリソースを蕩尽する制度設計がもはや固着してしまいました。これは、官民問わずです。
この部分については、イケメン・ガーバメンタル・サービスクリエーター氏のブログが詳しいです。
であるならば、個々人の当初の青雲の志なども、無意味なものかもしれません。
そうかといって、聞き取るという作業自体が、全く無意味のものであるとも言えません。昨日までの、同僚が自殺で消えうせてしまうというのは、心理的に(これはいじめていた人間、傍観者を含め)非常にきつい経験でしょう。ここで、人心の動揺を防ぐというのがカウンセリングの第一目的で、例えその中に、いじめ事例があったとしても、地方総監のあとがき検閲のもとでは、上記のように、加害者無し、黙認者無しという、生者の安心立命を最優先する報告書を作成するのが関の山であったとしても、聞き取るという作業が組み込まれることによって、ごく僅かでも(いじめをする側に対しての)牽制力となるかもしれません。


下さんを見ていると、イリヤ・エレンブルクという才能のある作家が、雪どけという作品の中で、組織の中の空気を読んで妥協しているうちに、もはやそれ以外のことが描けなくなってしまったのだと自嘲する画家のくだりを思いだします。
ご自愛ください。

2012年6月13日水曜日

高坂正尭講演 (新潮カセット講演)(1)

[]高坂正尭教授の講演CommentsAdd Star

高坂正尭教授の90年~91年の講演テープを草加市立中央図書館を通じて発見しました。私は保守ではない、保守では決してありませんが、その語り口、視点には魅せられることこのうえもありません。賛嘆の気持ちが高じて、アル・パチーノの演説とならび、通勤途上のICレコーダーに録音しました。以下は不完全なテープ起こしです。
私自身は、世界史ではUSPD(ドイツ独立社会民主党)、スイス社会党、カナダ新民主主義党に好感を持っています傾向の人間です。
高坂正尭
色字拡大したところは、味のある部分でもあり、なぜ私が何度も反芻するのか後でコメントを付すことができれば良いと考えます。
そのことをまず私は申し上げたいと思うんですね。
それにも関わらずね、ちょっと違う意味でも軍備の負担というのはアメリカにとって大きかったし、冷戦の負担は大きかったと、いうふうに私は思います。軍備の負担のどこが大きいかといいますと………。うーん、アメリカに特殊なケースもあるんですけど、技術の発達を軍需産業が行うようになっちゃった。そして、軍需産業に優秀な人材が集まるようになった。………で人材の無駄遣いというのは非常に大きいんですね。それに、困ったことですけどね。そらね、特殊な製品を造るほうが大衆製品を造るよりも遥かに面白いですよ。………そら、もうものすごく普通の自動車造るよりはF1造ったほうが面白いもの。セスナ造るよりはジェット機造った方が面白いですよ、そら、造るほうからすれば。………。同じように軍需産業が作る製品のほうが面白いでしょうからね。だから、相当立派な技術者がそこに行ったと。………。で、色んな数字がありますけれども、アメリカの上等の大学出た技術者の3割くらいが軍需産業に行く、という説がございます。大きいんですよね、これ。そのマイナスが非常に大きい。で、アメリカの産業がおかしくなったのはその所為だということができるかと思います。だけど、それ以上に大きいのがね、そりゃアメリカの政治システムその他を変えたということでしょうね。それが大きいんですね。つまり、アメリカの軍隊あるいは軍事的な考慮そういうものに対してあまりにも大きな影響力を与えてしまったと、与えすぎたと、いうところがあるんだろうと思うんです。こりゃ、非常に難しい問題なんで………。安全保障とか国防ってとっても大事なもんです。だからそれに携わる人に対しては然るべき尊敬を与えなければならない。………。でも、これはね、平常にはそう役に立たないものの考え方なんですね。で、人間っていうのは平常でない時のことを考える人が何人かはいます。必要であります。………。だけど、その平常でないことばっかり考える人があんまり強くなるのも困るんだな。で、アメリカではそういう風なことが起こったのではないだろうかと、いう風に私は思います。特に、アメリカの場合は伝統的に軍需産業中心に技術を伸ばしたこともなかったし、政治の中で軍隊が果たす役割というものも小さい国でした。戦後の日本と同じように民需中心で伸びてきたのがアメリカなんですね政府は小さくて、そして軍隊その他の権力構造が弱い、というのがアメリカの特筆なんですね。………。そこに、私はアメリカの活力があったような気がします。………。そこのところが、やっぱりね、………なくなってしまう。そういう欠点があったんじゃなかろうかと。そういう風に思うんですね。大体ね、アメリカほど大きい国で、なぜ人びとが自由に行動できたかと、いうと、普通には中間集団と言いますけれど、州とか各種の自発的な団体とか、そういう風なものが、非常に強くて、それが自立性を持っていたからだという風に言われます。ところが、あんまり真ん中の政府が強くなりますとそういうのなくなるでしょ。………。それが悪い、と。この説明はなかなか難しいんですけど。要するに、アメリカらしい、それぞれが自由で、そしてバラバラに行動しながらバランス取るというカッコウの政治形態が、冷戦の時にはなかなかやりにくいことになっちゃったと。そこに、活力が枯れる要因があったのではなかろうかという風に思われます。それに、もう一つは、これは一番基本かもしれませんけども、アメリカが対抗した相手の共産主義というのが、また変わったやつだった。これは、違う世界、違う体制があるよ、というビジョンを掲げる国であった。したがって、争いは普通の戦争ではなくて、何が正しい体制かを巡るものになっちゃった。イデオロギー闘争というものになっちゃった。そうしますとね、政府とか、知識人とか、そういう風なものについても、あまりにも動員がかかりすぎるようになるんですね。こりゃ、しょうがないことなんです。イデオロギー体制でソ連に負けちゃならんということになれば、やっぱり、冷戦にいかにして勝つかを考えます。必要なことであったと私は思います。だけど、同時にね、それがアメリカの良さである、何でも言うと。………。その点を無くなしてしまった事がありますね。特にね、そのアメリカの大学なんていうのは、ほんとに色んな人が社会のためになろうがなるまいが好きなことを言ってるのがアメリカなんですね。………。ところが、そういう非常に面白い考え方を生み出す自由というものがなくなったとすれば、やっぱりそれはアメリカの所為じゃないでしょうか。困ったことにこれまた不可避のことがあってね。そういうときに少数の人間が頑張ってアメリカの政府を批判しても、………、ダメなんです。………。だって少数のものがヒロイックに批判すればそれはまた変わり者になってしまって、これもホンモンじゃないんですね。………。変わった意見というのはね、その人が悲壮ぶることなく、すらーっと、こう言わにゃいかんのですね。ところがアメリカの冷戦体制のもとで、冷戦体制は悪いと言いますと、これは悲壮ぶって世の中の体制はこうだと、自分は断固として反抗すると………、肩に力が入ったんじゃ変わり者でもなんでもなくなるんです。これは、ただの意固地なだけでな。魅力がなくなりますからねだから、そこらのところがね。そのアメリカの活力というものを奪った素地であったのではなかろうかと、いう感じがします。それになんというても大きいのが2つの問題でして、1つがベトナム戦争です。………。戦争には失敗もあります。特に、勢力圏を巡る戦いでしたから、したがって、それは植民地戦争とは似てくるところがあった。で、アメリカの場合、やっぱりね、ベトナム戦争というのはその、大きな間違いであった。これがアメリカの社会に非常なショックを与えましたね。………。特にね、色んな意味でベトナム戦争の頃はアメリカの曲がり角の頃だった。それは世代問題を見ても判ります。ご存知かもしれませんけども、アメリカは戦後出生率が非常に上昇しました。これは、どこの国でもそうですよね。どこの国でもそうですが、アメリカの場合は1945年から1960年まで出生率が15年高いんです。もっと大事なことは1930年代のアメリカの出生率が大不況ということもあって、低いです。日本の場合ですとね、1930年代の出生率が高いですよね、戦争前ですから。それから戦後のベビーブームは5年でしょ。………。そすとね、かわいそうに、日本の団塊の世代というのはそこを取れば数は多いけど、社会の全体的な中から見れば圧倒的に強くならないんですよ。………。かわいそうではありますよ。そのものは。アメリカは逆。前は少なくて、あと15年かたまりがある。これは社会の非常に大きな影響力になります。さてね、その戦後生まれた世代が二十歳になったころ、正確に言うと21になった頃かな。まあ、20歳ころかな。1966年に65年かも、御免なさい1965年にアメリカはベトナム戦争に激しく介入します。そして、それは動考えても惨めな失敗ではありました。その結果ね、この世代は色んな意味で父親の世代に対して猛反発を始めます。そりゃ、もう当然起こるんだよ。普通でも起こるんです。前の世代が一生懸命働いて経済成長したときに、次の世代はなんとなくこれを胡散臭い目で見るものであります。だって、一生懸命努力して、つましく行動して、それはえらいけどね。一生懸命働いてつましく生活してそれはえらいけどね。でも、そこから返ってくるのは所詮カネでしょ。悪く言えばな。親って言うのは、子っていうのは親に反発しますから。あれだけえらそうな事いうて、あれだけよく働いて、それで一体なんだと。ちょっと金持ちになっただけじゃないかと。ちょっと金持ちになるのが大変なんですけども。ちょっと金持ちになったやつを後から見れば、ちょっと金持ちになっただけじゃないかと、こう思いますよね。もう少し別の価値は探し求められないだろうかと。そう思いますよね。その時期にね、ベトナム戦争で親の世代が失敗したわけです。そうすると、正義だの、サービス(公務)だの、奉仕だの言うとって、一体なんちゅうことしてくれたんだと………。で、こんな結果になるならピューリタニズムというのかな、良く働いて、つましい生活をして、そしてアメリカの理想のために尽くすと意味がないじゃないかと………、と言うことになりますね。だから、反抗の時節になっていて、その反抗する人々の数も増えていて、そのときにベトナム戦争やっちゃったわけですね。だから、最悪の時期にやったわけですよね。で、それからあとのアメリカの社会はほんとにいっぺんに悪くなります。で、社会が悪くなったというのは、色々悪くなったところも悪くなっていないところもあるかもしらんし、色んな評価が出来るでしょう。だけど、間違いないことは貯蓄率は低下しました。だって、普通若い子たちは親たちの様によく働いて、無駄遣いをしないという価値観をかなぐり捨てたんですから、気にしないですよ。で、アメリカの貯蓄率は低下したわけです。貯蓄率が低下しますと間違いなしに将来向けの投資はできません。生産性はあがりません。だから、追いつかれることになったわけですね。だから、社会的な問題は別にして、もですよ。僕は、案外社会的な問題も多いと思います。アメリカのニューヨークなんかに行くと、大きなマンション、必ず門番がいますよね。ものすごい人材のムダですよ、あれ。ありがたいことに、日本要らんもんなあ。地下鉄もたったふたりで運転してるでしょ。車掌と運転手で。あんな、危ない。ただ、誰も危ないと思わんだけの話でな、ありがたいことに。安全保障のコストってすごいんですよアメリカの場合ね。それもありますけど、それはまた別にしても、貯蓄率が下がり、若い層が反発が非常にきついカッコウで行われたというのが経済のパフォーマンスに大きな影響を与えました。馬鹿にならんことですよね。だから、戦争っていうのは、やっぱり被害が出るんです。それから、もう一つの被害が、1980年代にソ連が軍事力を強化したからアメリカは頑張ろうとした。で、レーガン大統領が、アメリカ人元気を出して頑張れ、とゆうた。で、私はこれも必要だったと思いますよ。ソ連は折れましたけれど、アメリカが強くなったから折れたんでねえ。だから、アメリカがなんもしなくても、ソ連が自然に変わったというのは、私は甘い考え方だと思いますね。少なくとも、人間っていうのはそれほど先読めませんもの。今から10年前っていうのは、ソ連が強そうに見えた。だから、レーガン大統領は頑張った。頑張ったときに、彼はやっぱり、まっとうな人間じゃなかったところがありますね。……というのは、軍備をするためには税金を取らないけません。僕は、これは、次に申しますけれど、政治家を判断するときに、税金を取るという政治家がいい政治家であって、税金を取らないという政治家はまやかしだと思ってください。税金を取らないなどという話はないんですから。政府が何かをやるためには必ず税金を取らにゃイカンのですから。でしょ。レーガン大統領は、減税をします、軍備を強化しますと。それが、通ったんだから不思議なもんだよね。考えてみれば。………。それ、やった訳です。それが巨大な財政赤字を生みました。1980年代にアメリカはいっぺんに債権国から債務国になった。日本は逆なんですね。………。だから、私はソ連のことを、今でも憎んでも憎み足らんという気持ちがちょっとすることがあるのは、なぜ、1973年にデタントがあったときに、ソ連の軍事力を減らさなかったのかね、と。………。そうしてりゃ、レーガンもないし、あのまま平和になったわけやな。………。それをそれから6,7年ソ連が軍事力を増やして、ロケットいっぱい作って、アメリカが対抗手段を(取るまでに至らせて)、おまけにアフガニスタンまで攻め寄った。あれ、1979年の末ですよ。………。アメリカが対抗手段を取って、まあ、言ってみれば、ただで軍事力を増強した。それがね、この最後の10年間の巨大な経済力の変化を生んじゃったわけですね。………。何ということしてくれたんかと思いますよ。あの、…ふたりして。(聴衆の笑い)つまり、ソ連はなぜ、1970年代にバカなことしてくれたんだよ、と。それから、1980年代にアメリカが軍事力を増やすのが必要であったとしても、やっぱりまっとうにな、税金を増やして軍事力を増やすことになぜ行かなかったんだろうかと。………。なんなら、それくらいうちが負担したったかもしらん。ちょっと、オーバーですけど(聴衆の笑い)。あのとき、日本が負担したほうがよっぽど世界のために良かったんですよ、本当に。もしも、アメリカがそう言うて、日本がそうするつもりがあればね。こんなに、アメリカが借金国になって、日本が債権を持つようになったのと比べればどれほどマシか。この喪われた18年ていうのはすごいですよね。実際。1973年から18年でしょ。だから、冷戦っていうのは1947、48年から1972、73年までの26年だったらまだ良かったんだよな。あとの18年のおまけがね。はぁー…(ため息)。なんともいえないものを生み出したと、いう感じが私にはするんですね。それが加速したと。そういう風に考えますと、まあ不思議なことに、ちょっとくらい希望も出てくるんでね。そういう、冷戦と経済成長やったためにアメリカが燃えつきたとすれば、大体復活の可能性があるわけですね。徐々に弱っていって衰えるのが一番悪いわけですから。そうじゃなくて、バリバリと燃えつきたんであれば、また復活するかもしらん。そういう感じがしないわけではありません。だけど、そんなこと考えてるのはね。私は最近の日米構造摩擦でも、前からもう、日本は全部譲んなさいと。良くても悪くても譲れと。理屈の問題じゃないと。理由を簡単に言えばね、アメリカとけんかをしたら、負けると。負けるけんかはしないというのが、政治のABCなんですね。そりゃ、もう意気地ないようにみえるかも、それがAなんだから。負けてもやあやあ我こそはというのは勇ましいかも知らんけど(聴衆の笑い)。それじゃ、政治・外交にならないんですから。勝つか、負けるかがまず大事。その次に、いくら勝ち負けが大事だと言っても、相手がどうしようもなかったら、こりゃ、しょうがないわな。だけど、アメリカは10年位したら戻るだろうと、という風に私は思うところがあるものですから。だから、譲んなさいと。まぁ、譲るようですから結構です。あろうことか、日本の国民がアメリカの方が正しいと言いだした。ちょっと、この頃不安になったのは朝日新聞までそう言い出したから(聴衆の笑い)。戦後、日本は朝日新聞の言うことの逆をして、成功してきたわけですから。ちょっと、俺、まちごうてるかもしらんなと(聴衆の笑い)。あの、思うようになってるんですけど。まあ、それはええとしましょうか。誰でも間違って、合うことがあるわけですから。不思議ですよね。なかなかその意味じゃいいほうにきてると思いますけど。しかしね、私だってそんなに極楽トンボじゃないんですよね。10年したら復活するだろうと。でも、病気はないのかね、と。あるかも知らんのですね。ただ、チェックしとかにゃイカンですよね。あの、協力する相手の精神状態、身体状態いろいろとチェックしとかにゃ(聴衆の笑い)。それは、我々の方にも通用しますから。そこで、チェックリストをいろいろと考えてみたいと思うんですが。ひとつは、繁栄の大きな原因であったところの福祉国家の問題です。福祉国家というのは、これまた経済の論理からすれば非常に簡単ですけど、………。一部の恵まれない人を豊かにするという効果をもっております。問題点を今度いいますよ。いいことだけ言いますからね、今日は。そして、大体のところ所得を平均化する機能を果たしております。そりゃ、今でもそれほど十分に平均化してないけど。もうちょっと平均化したほうがいい国はありますけど、アメリカなんかそうですね。そうですけども。しかし、そりゃ1920年代と比べればアメリカだって所得は平均化しています。その場合にですね、その助けられた人がいいかどうかはここでさておきます。社会全体が利益を得ることは間違いないんですね。なぜなら、所得が平均化するということは、まず第一に購買力が上昇いたします。全体としての購買力が上昇いたします。一部の人がものすごい金持ちで他の人が大方貧乏であったときに売れるものと、大方の人がまあまあ豊かであったときに売れるものは後の方が多いでしょ。着物とか食べ物とかみな同じだからね、大体。あの、需要が。そりゃ、自動車を3台買うか0台買うかだったら違うでしょうがね。しかし、いかに豊かになっても3台買う人は滅多におりませんですしね。それよりは、やっぱり、90%の人が安モンでもいいから1台持つほうがいいでしょ。トータルで購買力が増えますもの。購買力が増える国内で経済成長が出来るということを可能にするわけです。これは、戦争前の帝国主義に対して、資本主義というのは作ったものを自由に売りさばけないから外国に出かけていくと。したがって、国内の所得の分配をもうちょっと均等にして、国内でマーケットを広げていく、国内で成長すべきだという議論がございましたけれど。イギリスなんかそうですね。イギリスの労働党の中道から真ん中の方の議論は大体そういう議論になったんですけど、それにしたがった結果が出たということになるんじゃないでしょうか。そのプラスがまずあります。それから、もう一つはね、偶然不幸な理由によって落ちこぼれそうになったやつを助けるということは、助けられる人にとってプラスであるのみでなく、社会全体にとってプラスなんですよ。だって、落ちこぼれが一人出たらどれだけたくさん手間がかかりますか。我々の常識ですけど、ちょっとおかしな人を一人雇ったらね、これを監視する人がもう一人いて、(聴衆の笑い)、そうですよ、大体。それにまた、事務方が0・何人か要りますからマイナス1よりもっと上行くんだね、大体。であるとすると、何か病気のためにドロップアウトになるとかね。何か突然貧乏になるからドロップアウトする人がなくなるという制度は素晴らしいものなんですよ。………。それは間違いないんです。案外、怪しいのは助けられた人はどうかっていうことであって。多分いいんでしょうけど。助けられた人に対する効果って言うのは100%プラスではありません。なぜなら、助けられた人はね、これは、助けられ癖ができるとか、恨むとか色んなことが起こるからです。………。だから、全体の効果から言えば、恵まれない人を助けるという効果は間違いなしにいいということが出来ます。案外、その目的とされている助けるという、助ける相手ね、それに対する効果は場合によってはマイナスもあるということは知っといたほうが良いかもしれません<<

2012年6月9日土曜日

生活保護に関わる言説の変形・歪曲の一事例

生活保護に関わる言説の変形・歪曲の一事例

『生活保護3兆円の衝撃』 NHK取材班著 宝島社出版

http://www.amazon.co.jp/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E7%94%9F%E6%B4%BB%E4%BF%9D%E8%AD%B73%E5%85%86%E5%86%86%E3%81%AE%E8%A1%9D%E6%92%83-NHK%E5%8F%96%E6%9D%90%E7%8F%AD/dp/4796697136/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1339211320&sr=1-1
   前文より
生活保護に支払われるのは、1年で3兆3千億円。国の税収、40兆円あまりの12分の1を占める。月給40万円の家庭に譬(たと)えると、毎月、3万円余りを生活が困難な人たちのために支払っていることになる。しかも国債という借金の返済に月々18万円をあて、新たに37万円の借金をしているなかでの話だ。極めて厳しい財政負担となっている

 以上のテキストを以下のように変形して、拡散する人がいます。
http://twitter.com/#!/kittymomochan

http://twilog.org/arkanal1/date-120601

2012年5月31日

RT @kittymomochan: 月収40万円の人は毎月3万円を生活保護費分として国に納めている。終戦直後の生活や産業が破壊された時より受給者は多い。働く力がありながら働かない者の受給が増加し、制度を食い物にする輩や闇世界にカネが流れている。こんな現状に毎月3万円も払い続けてたいですか?何か間違ってないですか

このツイートを読み流石に間違いだと想い、以下のツイートを@kittymomochanに発信しました。

@kittymomochan 随分と耳目を引く数式ですね。貴下の言説内容の信憑性にも関わってくるでしょうからその真偽を所得税 住民税 消費税などの納税種別に精査合算して確かめてみたいと考えます。

私としては、少々筆が滑りましたという返答が来るかと思いきや、自信満々な回答が返ってきました。

RT @kittymomochan: @arkanal1 是非お願いします。先日NHKが出版した生活保護の本、序文に書いてありましたので。

@kittymomochan氏の拡散内容が、部分的事実ですらなく、煽動的歪曲であることは、月収40万円の人間の実効税率を計算すれば事足ります。

月収40万円×12ヶ月=480万円

概算金額として
年収500万円として計算

妻1人、子ども2人の家庭を想定、全収入が給与所得とする。
事業所得なり給与所得でない場合は計算式が異なり、控除金額も少なかったり税率もフラットだったりするが、悪い意味での煽動訴求を高めるため、月収40万円の人が国に3万円を生活保護に貪られている旨書いておられるのだから、給与所得で計算するのが相当でしょう。

1)収入から給与所得の金額の計算
給与所得の控除額 154万円 ⇒ 給与所得の金額 346万円

2)課税所得金額の計算
所得控除額 222万円 ⇒ 課税所得金額 124万円

3)所得税率10%
124万円×10% ⇒ 12万4千円

この12万4千円は年額です。
毎月で割ると、1万1千円を割る。

この金額が国に納める所得税の全てであり
kittymomochanのツイートで発信536のフォロワーに発信された月収40万円の人が3万円を生活保護に貪られているという主張が成り立つためには

ひとつ、
現在の実効所得税が3倍であること

更に、
その国の税収がすべて、生活保護費に投入される

というありえない前提が2つとも満たされていなければなりません。

kittymomochan氏のご職業は
シンクタンク勤務の朝鮮問題研究家。専門は政治体制、軍事・安全保障、対外関係(特に日朝関係)です。

だそうですが、ノイズ情報、スピン情報が乱舞し、偏見や恐怖といった感情が増幅しやすい場裏である安全保障、対外関係を研究されていながら、NHKの著作の中の国家税収40兆円を完全に歪曲的に擬人化するなど、前文を書いたNHK取材班の人たちもひたすら困惑することでしょう。

しかも、私が疑問を呈したツイートに対し、NHKの名を振りかざして自信満々の返答をされる。ちなみに書名をあげずに、NHKが出版したという表現は、著作名に突き当たるまで、余計な時間をかけさせました。まあ、NHKの関連すると思しき表題の前文を10冊以上読みふけったのは、時間コストは別にしてなかなか面白い体験でしたのでそこは追求しませんが。

2012年5月4日金曜日

定期的に筆写して反芻する言の葉 (1)

アレクサンドル・ジノヴィエフ 『余計者の告白 下』 自伝より

 元モスクワ大学教授、世界的な論理学者、小説家。1922年、奥ロシアの寒村に生れる。ロシアの農村を根底から変えた「集団化」を体験11歳でモスクワに上京する。貧困と飢餓のなかで学業を続けるが、次第に共産主義社会の矛盾に目覚め、スターリン崇拝に抵抗。そのため放校処分、精神鑑定、ルビャンカ監獄拘留等を受け、以後逃亡生活を送る。やがて身を隠し入隊、第二次大戦中は、空軍パイロットとして名を馳せる。

 戦後、「共産主義社会を律する客観法則」の解明をライフワークとし、フルシチョフ政権下、論理学主任教授となる。1976年、諷刺小説『恍惚の高み』(ユーロッパリア賞受賞)を出版、国外追放処分を受け、西ドイツに出国。ミュンヘンに在住していたが2007年死去。著作に、評論『現実としての共産主義』(トクヴィル賞)、小説『カタストロイカ』、詩画集『酔いどれロシア』等がある。



92pより引用 (97年にこの著作との邂逅、07年に再会)



 ジノヴィエガ

 以上に述べたことは私の国家の知的様相に関することである。外的様相に関しても、私は行動規則のひとつのシステムを構築した。学生たちは、このシステムをたわむれに「ジノヴィエガ」と呼んだ。

 

 ジノヴィエガは私の個人使用向けに作られた。時々友人たちにその話をすることもあった。たいていは笑い種になったが、話し相手の何人かはそれをまじめに受け取って、実行に移す者までいた。そのいくつかの要素は、私の本のなかで開陳したことがある。『ゴルゴダへ行け』では、それは主人公イワン・ラプチェフの名をとって「ラプティズム」とか「イワニズム」とか呼ばれている。当然のことながら、私の教えは文学的形態で表現されており、私自身の教理にはない余分なものも多く含まれている。



 ジノヴィエガはある種の宗教、とりわけキリスト教や仏教の周知の形態に似ている。違うのはそれが、20世紀後半に神なき社会で成長した教養ある人間のために構想されたものだということだ。それに、ジノヴィエガは自己に閉じこもることを正当化するためのものではない。それはソヴィエト社会でふつうに生活する人間、つまり集団のなかで働いて、その職責と社会的義務を果たし、公共輸送手段を用い、行列に並び、家族関係や友人を持たねばならない、そんな人間の使用に供されるものである。作品の主人公イワン・ラプチェフはジノヴィエガを次のように定義する。罪深い生に塗(まみ)れながらいかに聖人たりうるか、われわれの社会の泥沼のなかで、社会が意識の光景に退き、われわれの行為において具体化される固有の基準と価値をもった内的世界が、それに代わって前景に現われるようにするにはどうすればよいのか、と。



 以下にジノヴィエガの原則のいくつかを挙げておこう。



 私は物質的幸福への願望を捨て去ったが、それは幸福を何がなんでも拒絶するということではない。現代社会には誘惑があふれている。しかしそれは同時に、わずかなもので満足する可能性、何ものも所有せずにすべてがある、という可能性を作り出した。



 すべてを失うよりは何も持たない方がよい。自分の生活を、所有せずとも存在するというふうに構成しなければならない。失うことを学べ。自分の損失を納得し、埋め合わせを見つけるすべを学べ。なしですませられるものは買うな。



 快楽への願望はわれわれの時代の典型的な病気である。この疫病に抵抗せよ、そうすればおまえは、本当の歓びが「生きる」という単純な事実のうちにあることを知るだろう。そのためには、素朴さと明澄さと節度と道徳的健康といった、現代ではまったく稀になってしまったごく単純な美徳が必要だ。大部分のソヴィエト人にとって、日々の生活の貧窮と、喜びをもたらすあらゆるものの欠乏は、無視することのできない現実である。この生活と折り合いをつけ、何らかの埋め合わせを見出すことを考えなければならない。そのための唯一の手段は(生活の目標が物質的幸福のための闘いでないとすれば)、精神性と精神的交流を発展させることである。人間が幸福を求めるというのは本当だ。けれども限界のない幸福、いっさいの自己抑制のない幸福というものは存在しない。幸福は、節度の報酬でしか、自己抑制の結果でしかありえないのだ。もしおまえが日常生活で自制すれば、おまえのエゴは他の地平を振り向くだろう。そのとき初めて幸福は可能になるのだ。言いかえれば、それはつかの間のはかない幻影でしかない。満足は周囲の状況に打ち克つことから生れる。しかし幸福は自分自身に対する勝利の結果なのだ。



 私はそれぞれの人間のうちに私と同じような主権国家を認める。それはその人間の社会的地位とか年齢、性別、教育水準には関係しない。人々に対する私の姿勢は、彼らの序列や富や名声、あるいは私にとっての利用度などには左右されない。私にとって重要なのは、彼らの魂と人格の発達度だ。だから私は次のような原則を採用している。



おまえの尊厳を守れ。 他人と距離をとれ。 独立行動を保て。 他人を尊重し、彼らの弱さには寛大であれ。 身を落とすな、どんなに高くつこうとも人に諂(へつら)うな。 誰であれ、たとえ軽蔑にしか値しない有象無象でも、けっして見下して扱うな。 天才は天才と呼び、英雄は英雄と呼べ。 何でもない人間を賛美するな。 出世主義者や策謀家、中傷屋やその類の連中には近づくな。 議論せよ、しかし言い争うな。 話せ、しかし、無駄な長広舌はよせ。 説得せよ、しかしプロパガンダはやるな。 おまえが質問を受けているのでなかったら答えるな。 質問されたら問われたことにだけ答えよ。 人目を惹くな。 なくてすませるなら他人の手は借りるな。 おまえの援助を押しつけるな。 人と近すぎる関係はもつな。 他人の心の内に入り込もうとするな、そして他人もおまえの心中に入り込ませるな。 約束を守れる確信があったら約束せよ。 約束したら何としてでも約束を守れ。策謀や奸計を弄するな。 説教するな。 他人の不幸を喜ぶな。 闘いでは敵に有利な立場を与えよ。誰をも邪魔立てするな。 人と競争するな。 空いた道か、他人が進もうとしない道をえらべ。 その道を行けるところまで行け。 そしてもし誰かが同じ道を進んできたら、その道は捨てよ。おまえにとってはそれは方向違いだったのだ。 真理を口に出すのは孤独者だけだ。 もし大勢の人間がおまえの確信を分かちもつとしたら、それはおまえの確信のなかに、彼らに都合のよいイデオロギー的虚偽があることを意味している。 もしおまえが 「である」ことと 「見える」 こととのどちらかを選ばねばならないとしたら、前者を選べ。 栄誉や名声の酔い心地に屈するな。 過大評価するよりは過小評価されるほうがよい。 おまえを判断し、おまえを評価するのは誰かということを想起せよ。偽りのお世辞屋を何千人もつより、たったひとりでもおまえと同じ高みにあるまじめな称賛者をもつ方がよい。



 他人に無理強いするな。 他人を強制することは意志の証しではない。 ただ自分自身を拘束することのみが意志の証しである。 しかし他人がおまえを強制することは許すな。 上位の力に対してはあらゆる手段を用いて抵抗せよ。


 すべてのことは自分を責めよ。 もしおまえの子供が残酷に育ったら、そんなふうに育てたのはおまえだ。 もし友人がおまえを裏切ったら、そんな友人を信用したおまえに罪がある。 もしおまえの妻が不貞をはたらけば、その不貞をさせたのはおまえだ。 もし権力がおまえを弾圧したら、権力の力に貢献したおまえに罪がある。



 人の名を騙って行動するな。 おまえの行為が他人にどんな結果をもたらすかを考えよ。 おまえの行為がよい意図でなされても、それは結果の悪さを正当化するものではない。 同様に、よい結果が悪い意図を正当化するものでもない。




 体は目に見えないばい菌に蝕まれる。 心は些細な思い煩いや情動に蝕まれる。 生活上の瑣末事を気にかけないようにせよ。



おまえの行為が客観的に評価されることをあてにするな。 客観的評価など存在しない。 人々はおまえの振舞いを、自分たちの利害や世界観によって判断する。 人はみな違う。 同じ行為がある人々にはよくても、他の人には悪いということもある。 他人の行為を判断するとき、人々はすべての事情に通じているということはまずない。 計画的な嘘や中傷もあるということ、人々は偶像を理想化する傾向がある、ということも忘れてはならない。 だから自分が他人たちに理解されないまま生き死にするということも心得ておけ。 それは一般的な法則だ。 そしておまえが蒙(こうむ)るあらゆる「不正」は死と忘却によって正されることだろう。



 自分の振舞いの内的外的な制御を一切もたない人間は、隣人に対して卑劣な仕打ちをすることができる。 そういう者は他の者たちによってしか制御されない。 共同の努力によって、人々は習慣や法律、宗教や道徳といった形態のもとに、制御のシステムを編み出した。 しかしこれらの制限はけっして絶対的ではない。



 最良の人間の心中にも内的外的制御が弱まると表面に浮上してくるひとりの下衆(げす)がつねにいる。 だからだれにも心を許すことはできない。 人はいつおまえを騙すかもしれないし、おまえに悪さを仕掛けるかもしれない。 それはとくにおまえの近しい者について言える。 彼らはおまえにひときわ過酷な打撃を加えることになる。 というのもおまえはそれを予想していないからだ。 人間の敵はその隣人である、とイエスは言っている。



 人々を信頼するだけで満足することはできない。 人々がおまえに必要なことをなしうるような条件下に置かなければならない。おまえのためではなく彼ら自身のためだ。 おまえが騙されることになりそうな状況は避けよ。 他人への愛着には節度をもて。 そうすれば失望もとりかえしのつかないものにはならないだろう。



 女性に関しては慎(つつ)しみをもて。 関係を避けられるなら避けるがいい。 蔓延する性的放縦には身を任せるな。 現実がどんなにばかばかしくても、恋愛に対してはロマンティックな姿勢を保て。 俗悪、浮薄、鉄面皮、卑猥な言葉は避けよ。 羞恥や純潔は、吝嗇や悪癖とは比較にならないほとどの歓びを与える。



 おまえの敵たちを軽蔑せよ。彼らの存在が目に入らないかのように振舞え。 彼らはおまえがわざわざ闘うには値しない。 しかし何があろうと彼らを愛すな。 彼らはおまえの愛にも値しない。 彼らの犠牲になるのを避けよ。彼らをおまえの犠牲にするのもまた避けよ。 彼らを人格とみなすな。 おまえを刺す蝿や蚊をおまえは敵とみなすか?おまえの敵のなかに、蝿や蚊やバクテリア、しがないミミズをみるようにせよ。



 周到なプロの労働者たれ。 時代の文化の高みにあれ。 そのことは一定程度おまえを保護し、おまえに理があるという内的感情を与えてくれるだろう。 あらゆる類の合同や集団的活動はこれを避けよ。 党派やセクトには加わるな。

 

 集団に深く関わらないメンバーたれ。 策謀には加わるな。 噂や中傷の伝播には手を貸すな。 おまえの原則を破ることなく、独立した地歩を占めるようにつとめよ。 出世はするな。求めずして出世が向こうからやってきたら、その動きを止めよ。 なぜなら、出世はおまえの魂を駄目にするからだ。



 創造活動においては、大事なのは成功ではなく出来栄えだ。 もしおまえが、何か新しいもの、重要なものを創出できないと感じたら、おまえの力を注ぐべき別のことを探せ。 一般世論や大衆の嗜好やモードに流されるな。おまえ自身の意見と嗜好を作り出せ。



 不法なことは何もするな。 権力のゲームや見世物に加わるな。 物事の公式的な側面は無視せよ。 当局との抗争には入るな。 しかしまたそれに屈するな。 いかなる場合も権力を神格化するな。 当局者は信頼に値しない。 たとえ彼らが真実を言い、善をなそうと努める時でも、その社会的本性からして彼らは運命的に、嘘を言い悪をなすように仕向けられている。 公式のイデオロギーは無視せよ。 注意を払えばそれだけイデオロギーは強くなる。



 病気にはなるな。 自分で治せ。 医者や薬は避けよ。 規則的に体操をせよ。 ただし節度をもって。 やり過ぎはここでもまた欠乏と同じく有害だ。 いちばんいいのは、いつでもどんな条件下でもできる訓練システムを作ることだ。 その訓練を毎日繰り返せ。 もし身体の若さを保ちたいなら、精神の若さに意を用いよ。 体の老化は最晩年まで遅らせることができる。 身体的老化が老いや死の恐怖なしにひとつの自然現象のようにして訪れるように、自分の人生を構成することもできる。 重要なのは生きる年数ではなく、長い人生を生きたという感覚だ。ただ内的に豊かな生だけが、生物学的長寿の感覚を与えうる。



 人間は独りだ。それは最も耐えがたい状態である。 人生は孤独にできており、他人との接触は互いの魂の浸透のない外面的で偶発的なものでしかない。 人はどんな苦しみに耐えることもできるが、孤独には耐えられない。 孤独につける薬はないし、それを克服させてくれる訓練法もない。 孤独にもいろいろあるが、ひとつの形態はことのほか深刻である。 それは、人々に取り巻かれ、自由に知己を選ぶこともできるが、誰ひとり自分に近しい者を見出すことのできない、そんな人間の状態だ。 群集のなかの人間の孤独は恐ろしい。 その人間は不断に自分の結末を待ちながら生きている。 希望もなく、地平に光もない。 私のシステムは、人間にこのような経験を避けるすべを教える。 それは孤独の予防法、あるいはもっと正確に言えば、人生の避けがたい総括としての孤独への心構えである。 それは全身武装して孤独に立ち向かうすべと、孤独をそれ自体の長所をもつ状態として迎え入れるすべを教える。 すなわち、独立、無頓着、瞑想の暇、損失の軽視、死ぬことへの心構え、等々。




 いつも死ぬ準備ができていなければならない。 毎日を最期の一日のように生きなければならない。 おまえの死のあとに何も残らないように生を終えるよう努めよ。 わずかな遺産は笑いものになるのがおちだ。 大きな遺産は相続者のあいだに悪意と憎悪を生み出すことになる。 おまえは呼ばれもせずにこの世に来た。 そしておまえが去っても人は泣かない。 残るものたちを羨んではいけない。 彼らも同じ運命を分かち合っており、私たちはみな遅かれ早かれこの世を去り、やがて誰も私たちのことを知らない時が来る。 まだ健康なうちに死ぬ方が遅くなってから病気で死ぬよりもよい。 弱い者たちは生にしがみつく。強い者はよりたやすく生に別れを告げられる。 死を正面から見つめてゆっくりと死ぬよりも、予告もなしに突然死ぬほうがよい! 背後から殺された者たちは幸いだ!



 日常生活のなかで私はこの原則のすべてに従った。ひとつひとつばらばらに取ってみれば、他人の目から見て私を区別するようなものは何ひとつない。 しかし私の全行動を通して表れる一貫した振舞いは、周囲の人々の注意を惹かずにはいなかった。 いくつかの原則は周囲から全面的な賛同を得た。 私は住居や褒章を手に入れたり、位階を昇ったりするために誰とも競争しなかった。 研究計画の枠外で書いた学問的著作についても原稿料を受け取らなかった。 誰とでもよい関係にあった。 友人たちとの夜会にも加わった。 誰にも悪巧みはせず、追従もせず、密告もしなかった。 他人のためにすすんで犠牲になった。 隣人や、援助を求める人はみんな助けた。 もう酒は飲まなかったが、飲み会には喜んで参加し、自分の割り前まで払っていた。 不正に踏みにじられている人々を擁護した。 私は年季の入った話し相手で、他人の話を聞くのに長けていた。

 

 このような振舞いのために私の評判は良く、周囲からの尊敬も受けた。 私には充分な物資があり、それ以上物が欲しいとは思っていなかった。 広い知己の輪があり、弟子や学生たちがいた。 文化の豊かな富に無制限に近づくこともできた。 健康で、快活で、見守る暖かい目もあった。 人間=国家という私の理想は実現に近づいているかに思えた。



 しかし現実の生の弁証法が致命的な言葉を告げにやってきた。 理想が完成に近づけば近づくほど、それはいっそう外部からの攻撃を誘いやすくなるのだ。